復興支援に関わってくださる人材を募集します。求めているのは被災地域に入って復興を直接担う、「地域復興コーディネイター」です(同時にRCFアシスタントも募集です)。
現地では3-6ヶ月滞在して頂き、地域住民の皆様と共に復興計画を練って頂きます。いわて連携復興センターさん、NPO法人ETICさんと共に進めている「復興まちづくり推進プロジェクト(まだ名前も仮称です)」が受け手となります。
コーディネイターが地域にいるかいないかが、東北復興の成否を決めると私は考えています。それはなぜか。その事について今回は整理してみます。資料PDFも用意しましたから(http://rcf311.com/wp-content/uploads/2012/05/machidukuri.pdf )、お手元で眺めつつ少しだけ話にお付き合い下さい。
■地域復興計画をつくる段階へ (p1)
まず被災地の今の状況をご理解頂きます。資料の1ページをご覧下さい。横軸は時間の経過を示し、縦軸は街の回復度を示します。災害発生に街は大ダメージを受けましたが、直後の支援とインフラ復旧によって表向きの回復は進みつつあります。
現在は、コミュニティごとに「地域復興計画」をつくる段階にあります。高台移転をするかしないか。防潮堤の高さは。地域の生業をいかに取り戻すか。そうした地域のこれからの合意形成を図る必要があります。
行政でもボランティアでもNPOでも企業でもなく、地元住民主体となって議論が進められるのがポイントになります。行政が勝手に計画を押し付けても後に反対運動が生まれます。NPOが支援を行なうことが、地元の議論の妨げになることもあります。
■住民主体の場とは何か (p2)
住民主体の議論の場のことは、通称「復興まちづくり協議会」と呼呼ばれます。北九州市での、この組織の事例を入れましたので、p2をご覧下さい。自治会、婦人会、医療関係者、社協、PTA、NPOなど、コミュニティを担う団体すべてが、この協議会に含まれているのがポイントです。全て含まれているからこそ、議論・決定によって地域および行政にとって「代表性」を得られることができます。代表性を得ていなければ、たとえ復興計画を作ったとしても、後日別の関係者からの反対に会うこともあります。住民間・民間行政間での見解統一が必要なのです。
■成功のためのポイントとは p3
代表性ある復興計画が実現するためのポイントは3つあると考えます。繰り返しになりますが、一つは「住民の自発性」。次は「コミュニティ(旧市町村または集落)単位であること」。そして「関係者の支援」です。
地域コミュニティ再建に向けた論点は多岐に渡ります。土地利用、企業再開、教育、医療、福祉、行政連携・・。コミュニティにリーダーはいますが、そうした方に地域の問題が集中しているため、ボトルネックに陥っている現状があります。必要なのは事務局機能です。集まりの議論を紙に整理し、住民や役所や関係者に発信します。他の地域の好事例を引っ張ってくることも必要でしょう。そうした事務局人材がどうしてもコミュニティに不可欠です。
できればコミュニティの中から生み出すべきですが、なかなかいないのも現実です。そこで、期間限定でそうした人材を外部からコミュニティへ派遣する必要があると考えます。そうした"よそ者"を我々は「地域復興コーディネイター」と呼んでいます。
■地域復興コーディネイターとは p4
地域での取組みイメージは、5月7日のエントリでもまとめましたから、そちらもご覧下さい→『「コミュニティにおける復興計画のつくりかた」〜『地域コミュニティ論』より』 http://retz.seesaa.net/article/268930308.html
まずは地域を足で稼ぎます。自治体が持つ地域データを整理すると共に、地域に何があるかを地図に落としこみます。住民の皆さんとの対話を何より大切にします。そうした中から見えてくる課題を理解しつつ、住民の皆さんによる地域復興計画づくりを側面支援するわけです。時には、新しいプロジェクト・事業を開始してみる被災者もおられるかもしれません。そうした方は地域の"宝"になるわけで、少しでも前に進むようお手伝いをします。
■5月22日に説明会を開催します。募集中
現在、RCFはいわて連携復興センター、NPO法人ETICと連携し、こうした地域復興コーディネイターの派遣を進めています。被災市町村では、一人でも多くの外部コーディネイターの確保が求められています。街づくり経験がある方はもちろん、企業等でプロジェクトコーディネイト経験がある方を必要としています。
5月22日(火)夜に、説明会を開催致します。現地での復興支援に関心ある方、現地に向かうことはできないけれども関心ある方も、ぜひ参加頂ければと思います。またRCFのアシスタントも現在募集しています。詳しくは下記サイトをご覧下さい。
http://rcf311.com/2012/05/11/saiyo_2/
■支援者も一致団結すべき
被災地は、復興の踊り場に入りました。行政やNPOや企業が単独で動いても何もできないタイミングです。住民の皆さんの求めに応じ、いつ・どこで・何を決めなければならないのかを我々は提示していく必要があります。現地のスピードに合わせながら。そうして1-2年続く踊り場を抜けられるかどうかに、復興はかかっています。
被災者の皆さんとの伴走を行なう気持ちをお持ちの方、ぜひともご応募頂ければと思います。今から、今こそ、あなたの力が必要です。
また同様の活動を担われているNPO・行政・企業の皆様、ぜひ御連絡下さい。我々が持っている情報・ノウハウは全て共有させて頂きます。残っている支援者は日に日に減っていて、横で力を合わせていく必要があります。「あれだけの災害が起きたけれども、日本は復興を実現できた」そのように、後の日本人に考えてもらえるように、力を尽くしたいと考えています。(5月13日)
2012年05月13日
2012年05月10日
宮古市の復興が早い理由と、残された課題
被災地の中でも、復興スピードが早いのは岩手県宮古市だと言われます。例えば比較的同規模の人口の宮城県気仙沼市と比べてみますと、気仙沼市は震災後に人口が6パーセント減少しましたが、宮古市は2パーセントに留まっています。その理由は、宮古市役所が県・国とも連携しながら地場中小企業を全面バックアップしたからです。その施策について、宮古市役所産業支援センターの佐藤日出海所長が『震災復興と地域産業1』(関満博編、2012)に寄稿しています。紹介します。
■水産加工業者は9割事業再開
宮古市内で、床上浸水以上の被害を受けたのは1108事業所だったそうです。そのうちサービス業が524、商業が350。また水産加工業は57事業所のうち45が被災したそそうです。このうち、40事業所は再開を果たせています。その裏側には、宮古市の迅速な支援がありました。
■ワカメの種付のために支援を急ぐ
最初に打ち出された支援は、震災から3週間たたない2011年3月30日でした。事業所の資金繰りを支援するために、利子補給を宮古市は実施します。また設備を貸与することで事業再開を支援しました。金額は10年間で2.8億円。全額、宮古市が負担しています。
6月10日には、漁協に対して費用の8/9を補助する補正予算8.9億円が、宮古市議会に提案され可決されています。これも宮古市の単独費です。お盆前にワカメの種付けを終えるもらうための措置でした。
こうしたスピーディな支援を実現したのは、震災前から市役所と事業者が互いの状況を把握しており、意思疎通がスピーディだったからとのことです。
■県内最速で工場再建
宮古市の県・国との連携もスムーズでした。2011年4月27日には、宮古市の要請もあって工場の修繕と再建のための補助金が県議会臨時会に提案・議決されています。これは県が1/2、市町村1/2を補助するもの。修繕費の半額が補助されるのは極めて稀とのことです。また3月11日以降に独自に修繕した費用もさかのぼって補助されたことは事業者から高く評価されています。
修繕・建築費用が1億円をこえる事業者のサポートは課題として残りました。ここは国との連携が図れられます。いわゆるグループ補助金制度によって、建設費・修繕費・設備購入費に対して国が2/4、県が1/4の補助がなされました。
宮古市は、この補助金に事業者が申請することを全面的にバックアップ。結果として市内55事業者が採択しています。例えばウエーブクレスト宮古工場(http://www.mono385.net/kougyou-bukai/597 )は、2154平方メートルの新工場を2012年の1月から再開させました。岩手県で最速だったそうです。
■事業再開が進まない5つの理由
以上、宮古市による事業所支援を紹介しました。もちろん、残された課題もあります。事業再開ができないのは、下記の5つの理由が挙げられるそうです。
1 防潮堤の位置・高さ・完成時期。立地場所の津波に対する安全性が確認できないため。
2 可住地域と非可住地域の区分。非可住地域だと、住宅を併設する店舗や工場が建設できないため。
3 構造規制区域。指定されると、鉄骨造り、鉄筋コンクリート造にする必要があり費用がかさむため。
4 嵩上げ(土盛り)の高さ。嵩上げ高が大きいと、一定期間を経過しないと建物建設に着手できないため。
5 土地の買取と買取価格。非可住地域では土地の買取がなされるのか不明。その金額も不明なため。
しかし、これらの理由を解消するのは簡単ではありません。地域コミュニティの中で合意形成が必要になるからです。
■合意形成と産業再生の矛盾を解決する
防潮堤はじめ土地利用のあり方を決めるため、行政による説明会が被災地各地で行われています。この段階を先に進まないと事業所は再開できず、人口は流出、地域は衰退します。といっても行政が無理に進めるべきではありません。住民の意見を踏まえず区画整理を進めようとすれば、早晩に反対運動がおきて計画はストップします。例えば石巻市の雄勝町は当初復興のトップランナーと言われていましたが、計画を急ぎすぎたことで一部住民からの反発が生まれ、見通しがつかない事態に陥っているとのことです。
簡単な答はありません。「住民の熟議による合意形成」と「スピーディな地場産業再生」、矛盾する二つの要件を満たすことが、復興の鍵になるわけです。(5月10日)
■参考文献
関満博『震災復興と地域産業1 東日本大震災の「現場」から立ち上がる』(2012, 新評論) 1463旅 ★★★★
■水産加工業者は9割事業再開
宮古市内で、床上浸水以上の被害を受けたのは1108事業所だったそうです。そのうちサービス業が524、商業が350。また水産加工業は57事業所のうち45が被災したそそうです。このうち、40事業所は再開を果たせています。その裏側には、宮古市の迅速な支援がありました。
■ワカメの種付のために支援を急ぐ
最初に打ち出された支援は、震災から3週間たたない2011年3月30日でした。事業所の資金繰りを支援するために、利子補給を宮古市は実施します。また設備を貸与することで事業再開を支援しました。金額は10年間で2.8億円。全額、宮古市が負担しています。
6月10日には、漁協に対して費用の8/9を補助する補正予算8.9億円が、宮古市議会に提案され可決されています。これも宮古市の単独費です。お盆前にワカメの種付けを終えるもらうための措置でした。
こうしたスピーディな支援を実現したのは、震災前から市役所と事業者が互いの状況を把握しており、意思疎通がスピーディだったからとのことです。
■県内最速で工場再建
宮古市の県・国との連携もスムーズでした。2011年4月27日には、宮古市の要請もあって工場の修繕と再建のための補助金が県議会臨時会に提案・議決されています。これは県が1/2、市町村1/2を補助するもの。修繕費の半額が補助されるのは極めて稀とのことです。また3月11日以降に独自に修繕した費用もさかのぼって補助されたことは事業者から高く評価されています。
修繕・建築費用が1億円をこえる事業者のサポートは課題として残りました。ここは国との連携が図れられます。いわゆるグループ補助金制度によって、建設費・修繕費・設備購入費に対して国が2/4、県が1/4の補助がなされました。
宮古市は、この補助金に事業者が申請することを全面的にバックアップ。結果として市内55事業者が採択しています。例えばウエーブクレスト宮古工場(http://www.mono385.net/kougyou-bukai/597 )は、2154平方メートルの新工場を2012年の1月から再開させました。岩手県で最速だったそうです。
■事業再開が進まない5つの理由
以上、宮古市による事業所支援を紹介しました。もちろん、残された課題もあります。事業再開ができないのは、下記の5つの理由が挙げられるそうです。
1 防潮堤の位置・高さ・完成時期。立地場所の津波に対する安全性が確認できないため。
2 可住地域と非可住地域の区分。非可住地域だと、住宅を併設する店舗や工場が建設できないため。
3 構造規制区域。指定されると、鉄骨造り、鉄筋コンクリート造にする必要があり費用がかさむため。
4 嵩上げ(土盛り)の高さ。嵩上げ高が大きいと、一定期間を経過しないと建物建設に着手できないため。
5 土地の買取と買取価格。非可住地域では土地の買取がなされるのか不明。その金額も不明なため。
しかし、これらの理由を解消するのは簡単ではありません。地域コミュニティの中で合意形成が必要になるからです。
■合意形成と産業再生の矛盾を解決する
防潮堤はじめ土地利用のあり方を決めるため、行政による説明会が被災地各地で行われています。この段階を先に進まないと事業所は再開できず、人口は流出、地域は衰退します。といっても行政が無理に進めるべきではありません。住民の意見を踏まえず区画整理を進めようとすれば、早晩に反対運動がおきて計画はストップします。例えば石巻市の雄勝町は当初復興のトップランナーと言われていましたが、計画を急ぎすぎたことで一部住民からの反発が生まれ、見通しがつかない事態に陥っているとのことです。
簡単な答はありません。「住民の熟議による合意形成」と「スピーディな地場産業再生」、矛盾する二つの要件を満たすことが、復興の鍵になるわけです。(5月10日)
■参考文献
関満博『震災復興と地域産業1 東日本大震災の「現場」から立ち上がる』(2012, 新評論) 1463旅 ★★★★
2012年05月07日
「コミュニティにおける復興計画のつくりかた」〜『地域コミュニティ論』より
復興に向けて、地域コミュニティ住民が主体となった「地域復興計画」が必要だと書き続けてきました(例えば→http://retz.seesaa.net/archives/201204-1.html )。市町村別の復興計画は出揃いつつありますが、さらに住民がリードできる範囲で工程表をつくることが必要なわけです。プランができることで、行政と住民が連携しながら復興に向けた歩みをスタートすることができます。
では、地域復興計画はどのような手順で作成すべきでしょうか。地域社会の研究者である山崎丈夫氏による『地域コミュニティ論』を参考に整理してみます。
■1.現状把握
計画をつくるにあたって、まずはコミュニティの現状を知る必要があります。もちろん現地の皆さんの方が詳しいわけですが、かえって古かったり偏った知識に留まることもあります。数字にしたり、他地域と比べてたりして客観的に地域を捉えることは、外の人間だから可能なことです。
まずは地域の行政情報をすべて集め、整理します。市役所にいけば、コミュニティ単位の人口や産業動向はすぐに集められます。他には交通、自治会運営状況、祭事もチェックしておきましょう。もちろん市町村のウェブサイトや復興計画は読み通します。
続いて、地域をとにかく歩く、歩き、メモをとります。可能であれば住民からヒアリングさせて頂いたり、住民同士で現状把握のための話し合いをもつことも有効でしょう。
得られた情報の中で、短期的中期的に解決が必要な問題を地域の地図に落としこんでいきます。これをコミュニティマップと呼びます。
■2.課題の集約と共有
計画を作る上で避けるべきは、全ての問題解決を図ってしまうことです。現地で発生している問題を洞察していけば、共通の原因が見えてくるものです。同時に、解くべき課題を住民の皆さんのなかで合意していくこともポイントになります。
そこで、先につくったコミュニティマップを活かします。問題が書かれた地図を住民の皆さんと一緒にみながら、問題点の深堀を行なっていきます。そうした中で、復興において解決すべき重点課題が見えてきますし、同時に合意形成を図ることもできるわけです。
絞られた課題と、解決の方向性をまとめたものを文章(ドキュメント)にしておきます。これを地域カルテと呼びます。
■3.地域復興計画の作成と行政への提出
「課題」と「合意」を経て、ようやく地域復興計画を作ることができます。地域カルテを前提としながら、まずは素案を作成します。素案は、縦軸に課題を並べ、横軸を時間として整理します。この一年間で取り組む計画と、中長期的な計画を区分するわけです。
作られた地域復興計画を、改めて住民の皆さんと合意を図ります。なお、合意する際に、特定の個人や団体に絞らないことが重要です。「復興まちづくり協議会」のように、その地域における主要な個人・団体が全てオープンに集まり、行政が代表性を認めている場があることが前提となります。そうした協議会で、地域復興計画を議論し、決めていくことが求められます。作成された計画は住民に広く公表しつつ、行政に正式に提出を行います。その際にはメディアに集ってもらうことも効果的でしょう。
住民が主体になってつくり、行政が認める地域復興計画がどれだけ被災地にできるかが、復興のバロメーターとなります。こうした計画を一緒につくってもらえる個人や団体をRCFは求めています。関心がある方はぜひ御連絡を下さい。(5月7日)
■参考文献
山崎丈夫『地域コミュニティ論[三訂版]』(2009, 自治体研究社) 1462旅
では、地域復興計画はどのような手順で作成すべきでしょうか。地域社会の研究者である山崎丈夫氏による『地域コミュニティ論』を参考に整理してみます。
■1.現状把握
計画をつくるにあたって、まずはコミュニティの現状を知る必要があります。もちろん現地の皆さんの方が詳しいわけですが、かえって古かったり偏った知識に留まることもあります。数字にしたり、他地域と比べてたりして客観的に地域を捉えることは、外の人間だから可能なことです。
まずは地域の行政情報をすべて集め、整理します。市役所にいけば、コミュニティ単位の人口や産業動向はすぐに集められます。他には交通、自治会運営状況、祭事もチェックしておきましょう。もちろん市町村のウェブサイトや復興計画は読み通します。
続いて、地域をとにかく歩く、歩き、メモをとります。可能であれば住民からヒアリングさせて頂いたり、住民同士で現状把握のための話し合いをもつことも有効でしょう。
得られた情報の中で、短期的中期的に解決が必要な問題を地域の地図に落としこんでいきます。これをコミュニティマップと呼びます。
■2.課題の集約と共有
計画を作る上で避けるべきは、全ての問題解決を図ってしまうことです。現地で発生している問題を洞察していけば、共通の原因が見えてくるものです。同時に、解くべき課題を住民の皆さんのなかで合意していくこともポイントになります。
そこで、先につくったコミュニティマップを活かします。問題が書かれた地図を住民の皆さんと一緒にみながら、問題点の深堀を行なっていきます。そうした中で、復興において解決すべき重点課題が見えてきますし、同時に合意形成を図ることもできるわけです。
絞られた課題と、解決の方向性をまとめたものを文章(ドキュメント)にしておきます。これを地域カルテと呼びます。
■3.地域復興計画の作成と行政への提出
「課題」と「合意」を経て、ようやく地域復興計画を作ることができます。地域カルテを前提としながら、まずは素案を作成します。素案は、縦軸に課題を並べ、横軸を時間として整理します。この一年間で取り組む計画と、中長期的な計画を区分するわけです。
作られた地域復興計画を、改めて住民の皆さんと合意を図ります。なお、合意する際に、特定の個人や団体に絞らないことが重要です。「復興まちづくり協議会」のように、その地域における主要な個人・団体が全てオープンに集まり、行政が代表性を認めている場があることが前提となります。そうした協議会で、地域復興計画を議論し、決めていくことが求められます。作成された計画は住民に広く公表しつつ、行政に正式に提出を行います。その際にはメディアに集ってもらうことも効果的でしょう。
住民が主体になってつくり、行政が認める地域復興計画がどれだけ被災地にできるかが、復興のバロメーターとなります。こうした計画を一緒につくってもらえる個人や団体をRCFは求めています。関心がある方はぜひ御連絡を下さい。(5月7日)
■参考文献
山崎丈夫『地域コミュニティ論[三訂版]』(2009, 自治体研究社) 1462旅
2012年05月06日
原発再稼働について私が思うこと。
原発の稼働がゼロになりました。再稼働をめぐって、様々な議論が戦わされています。私はこの分野の専門性はありません。しかしながら、「民主体の復興」「オープンガバメント」などの推進に関わってきた経緯から、こうした問題に市民の一人として意見を述べておくことは重要だと考え、コメントするものです。当然ですが、これらは個人の見解であって、所属団体・組織の見解を代表するものではありません。
■平行線の議論
さて、問いは「今夏の電力需要にむけて、原発再稼働すべきか否か」とします。長期的な話ではなく、まず今年の話に絞るということです。様々な意見が出ていますが、平行線の議論が多い模様ですね。
「原発を稼働させないと2.7兆円も費用がかさむ。電力料金が大変なことになる」「いや、人の命には変えられない」。「関西では電力が15パーセント足らない」「ピークだけ頑張れば良い」。「いやいや電力料金に耐え切れなくて企業が海外に出てしまう」などなど。議論が錯綜した場合は、まずは論点整理が必要です。
■再稼働に関する論点は何か
1.電力会社の赤字
2.電力料金高にともなう国内企業の海外移転
3.原発事故によるリスク
4.大規模停電によるリスク
5.環境問題
再稼働における論点は、概ねこの5つに分類できると思います。そして結論から言えば、見解の違いは「原発事故のリスクの大きさ」にのみ現れると考えます。再稼働肯定派は、事故リスクはさほど高くないと考え、それよりも停電や企業海外移転の方がずっと可能性が高いと考えている。再稼働否定派は、まだまだ事故のリスクが高いと考えているわけです。
となれば、たとえば再稼働の焦点となっている、福井県の大飯原発がどこまで安全なのかが焦点なわけです。それ以外を議論しても、肯定派否定派が歩み寄ることはないでしょう。
■再稼働賛成派と反対派にそれぞれ聞きたいこと
さて政府官邸のスタンスも、安全かどうかに重きをおいています。詳細はこちらの官邸HPを御覧下さい→http://www.kantei.go.jp/jp/headline/genshiryoku.html
官邸は安全性に関して3つの基準を示しており、いずれも問題ないとの考えが表明されています。「1安全対策の実行」「2安全性の総合評価」「3安全性向上へ向けた事業者の事業計画・姿勢の明確化」の三点がその基準です。あとは国民や自治体の理解さえ得られれれば「再稼働を最終決断する」と政府は明言しているわけです。
「原子力規制庁が出来てから再稼働する」との考えもあるでしょうが、箱ができるか否かは本質的な論点ではないと考えます。政府が示している三基準はそもそも適切なのか。基準は満たせていると言えるのか。その点を突き詰めなければ、いつまでも議論は平行線だと考えます。
再稼働賛成派からは「なぜ大飯原発は安全と言えるか」。再稼働反対派からは「なぜ大飯原発は安全ではないと言えるか」が、私がそれぞれ聞きたいことです(5月6日)
■参考
読売新聞社説 「全原発停止 これでは夏の電力が不足する」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20120504-OYT1T00811.htm
毎日新聞社説 「大飯原発再稼働 理解に苦しむ政治判断」 http://mainichi.jp/opinion/news/20120415k0000m070101000c.html
中日新聞社説 「私たちの変わる日 泊停止・原発ゼロへ 」
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012050402000068.html
■平行線の議論
さて、問いは「今夏の電力需要にむけて、原発再稼働すべきか否か」とします。長期的な話ではなく、まず今年の話に絞るということです。様々な意見が出ていますが、平行線の議論が多い模様ですね。
「原発を稼働させないと2.7兆円も費用がかさむ。電力料金が大変なことになる」「いや、人の命には変えられない」。「関西では電力が15パーセント足らない」「ピークだけ頑張れば良い」。「いやいや電力料金に耐え切れなくて企業が海外に出てしまう」などなど。議論が錯綜した場合は、まずは論点整理が必要です。
■再稼働に関する論点は何か
1.電力会社の赤字
2.電力料金高にともなう国内企業の海外移転
3.原発事故によるリスク
4.大規模停電によるリスク
5.環境問題
再稼働における論点は、概ねこの5つに分類できると思います。そして結論から言えば、見解の違いは「原発事故のリスクの大きさ」にのみ現れると考えます。再稼働肯定派は、事故リスクはさほど高くないと考え、それよりも停電や企業海外移転の方がずっと可能性が高いと考えている。再稼働否定派は、まだまだ事故のリスクが高いと考えているわけです。
となれば、たとえば再稼働の焦点となっている、福井県の大飯原発がどこまで安全なのかが焦点なわけです。それ以外を議論しても、肯定派否定派が歩み寄ることはないでしょう。
■再稼働賛成派と反対派にそれぞれ聞きたいこと
さて政府官邸のスタンスも、安全かどうかに重きをおいています。詳細はこちらの官邸HPを御覧下さい→http://www.kantei.go.jp/jp/headline/genshiryoku.html
官邸は安全性に関して3つの基準を示しており、いずれも問題ないとの考えが表明されています。「1安全対策の実行」「2安全性の総合評価」「3安全性向上へ向けた事業者の事業計画・姿勢の明確化」の三点がその基準です。あとは国民や自治体の理解さえ得られれれば「再稼働を最終決断する」と政府は明言しているわけです。
「原子力規制庁が出来てから再稼働する」との考えもあるでしょうが、箱ができるか否かは本質的な論点ではないと考えます。政府が示している三基準はそもそも適切なのか。基準は満たせていると言えるのか。その点を突き詰めなければ、いつまでも議論は平行線だと考えます。
再稼働賛成派からは「なぜ大飯原発は安全と言えるか」。再稼働反対派からは「なぜ大飯原発は安全ではないと言えるか」が、私がそれぞれ聞きたいことです(5月6日)
■参考
読売新聞社説 「全原発停止 これでは夏の電力が不足する」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20120504-OYT1T00811.htm
毎日新聞社説 「大飯原発再稼働 理解に苦しむ政治判断」 http://mainichi.jp/opinion/news/20120415k0000m070101000c.html
中日新聞社説 「私たちの変わる日 泊停止・原発ゼロへ 」
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012050402000068.html
2012年05月05日
飯舘村の過去と現在(その2)
前回エントリ『飯舘村の現在と過去(その1)』 http://retz.seesaa.net/article/268617902.html では飯舘村が、まちづくりの観点で日本有数の村だったことを書きました。続く今回は、昨年の震災以降の話です。飯舘村の複雑な事情を知り、これからも共に考えていく必要があることを理解頂ければと思っています。
■「計画的避難区域」
3月15日の午後6時20分、飯舘村の大気中放射線量は、毎時44.7マイクロシーベルトを記録しました。その瞬間から今に至るまで、飯舘村は揺れ続けることになります。「ただちに健康に被害はない」「強制的に避難することのリスクもある」様々な意見の中で、村長は避難を決断できずにいます。その間に自主避難をされたのは1000人にのぼりました。
4月10日に、当時の福山官房副長官は、菅野村長と秘密裏に面会します。その場で、飯舘村が計画的避難区域に設定されることを福山氏は菅野村長に告げました。翌日の4月11日には枝野官房長官からも記者発表がなされています
全村民が村から離れる事態になっても、菅野村長は村への帰還を模索します。まず、例外的に村にある事業所を創業し続けることを政府に認めさせました。ただし当初は450人が勤務を続けていたものの、11月末には150人減ってしまうなど厳しい状況が続きます。
■「二年後に一次帰村を」
また村民が離れるにあたり、「いいたて全村見守り隊」を緊急雇用基金を活用して結成(http://www.asahi.com/photonews/gallery/fukushimagenpatsu4/0606_iitate2.html )。住民不在の村のパトロールを実施しています。また7月には、避難先での自治会組織の検討を開始しました。公営宿舎や仮設住宅入居者を12の自治会に組織し、同時に「絆づくり支援職員」として役場職員を3人ずつ配置します。またそのうちの6自治会では、村との連絡調整にあたる嘱託の管理人として、村民を雇用もしています。9月16日には、自治会の連絡協議会も設立されています。このあたりは、原発事故前の協働まちづくりの経験が活きているのでしょう。
そして12月16日には、復興計画の第一版を公開。そこでは二年後の目標としして「一部・一次帰村の開始」。五年後には希望前村民の帰村の実現を目指しています。(復興計画は飯舘村HPに公開されています→http://www.vill.iitate.fukushima.jp/saigai/?p=1406 )
菅野村長はじめ、飯舘村を維持するための強い決意が伺えるのが、これまでの取組みでした。
■twitterでの呼びかけ
飯舘村の復興に向けた活動の、中心的な存在は20代若者が立ち上げました。「負げねど飯舘!!」です。活動経緯がウェブサイトにまとめられていますから、ぜひご覧下さい→http://space.geocities.jp/iitate0311/keii.html 。
設立のきっかけは、村の商工会青年部副部長をつとめていた29歳の佐藤健太さんのtwitter(@024442)です。原発事故以降の飯舘村の状況をつぶやきつづけた結果、6000人のフォロワーに注目され、様々な支援や応援が寄せられます。メンバーは、村に対して一刻も早い避難を呼びかけます。
■若い世代らしい対抗と協調
興味深いのは、行政と協調する姿勢を取り続けているところです。村に厳しい姿勢をとりつつも、余裕がない役場にかわってイベントを行なったり、「健康手帳」などの事業を一緒に取り組んだりもします。決起集会で決議文を採択した時にも、「怒りを噴出させない」という姿勢で、20-30代メンバーがシニアメンバーの意見を変えていったそうです。このあたりには、批判に終始しない今の世代らしい在り方(ポジ出し)がうかがえます。
ただしその後も、村役場と村民の意見は必ずしも一致しません。そのあたりは、4月18日にダイヤモンド・オンラインに掲載された菅野村長へのインタビューに様々な経緯が書かれています(http://diamond.jp/articles/-/17361 )。例えば、当初村が出した「2年での帰還」「除染費用3200億円」に対して、「二年で帰るのは無理」「それだけのお金があるなら住民に支給してほしい」などの声が一部であがったそうです。
■6000人だけの問題ではない
除染は効果的なのか。除染にそれだけの費用をかけて良いのか。除染できたとして帰還してよいのか。帰還しても生活は成り立つのか。様々な意見が飯舘村では交じり合います。いち早く帰村宣言を出した川内村も、3000人の人口の中で帰還したのは一ヶ月後で500人でした。そして買い物や病院といった生活インフラが十分整わない状況も続いているそうです。飯舘村も同様の問題は発生するでしょう。
一つの意見に収れんできない現実が、ここにあります。この問題を飯舘村の6000人の皆さんにのみ押し付けるべきではありません。日本人全体として、どのように支えるべきなのか。考え続ける必要があります。(5月5日)
■参考文献
千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない』(2012) 1460旅
菅野典雄『美しい村に放射能が降った 飯館村長・決断と覚悟の120日』(2012) 1461旅
『「までい」の心で村を復興させる 帰村を諦めては日本の恥だー菅野典雄 飯舘村村長インタビユー』 http://diamond.jp/articles/-/17361
『静まりかえった飯舘村の春』(JB PRESS) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35039
■「計画的避難区域」
3月15日の午後6時20分、飯舘村の大気中放射線量は、毎時44.7マイクロシーベルトを記録しました。その瞬間から今に至るまで、飯舘村は揺れ続けることになります。「ただちに健康に被害はない」「強制的に避難することのリスクもある」様々な意見の中で、村長は避難を決断できずにいます。その間に自主避難をされたのは1000人にのぼりました。
4月10日に、当時の福山官房副長官は、菅野村長と秘密裏に面会します。その場で、飯舘村が計画的避難区域に設定されることを福山氏は菅野村長に告げました。翌日の4月11日には枝野官房長官からも記者発表がなされています
全村民が村から離れる事態になっても、菅野村長は村への帰還を模索します。まず、例外的に村にある事業所を創業し続けることを政府に認めさせました。ただし当初は450人が勤務を続けていたものの、11月末には150人減ってしまうなど厳しい状況が続きます。
■「二年後に一次帰村を」
また村民が離れるにあたり、「いいたて全村見守り隊」を緊急雇用基金を活用して結成(http://www.asahi.com/photonews/gallery/fukushimagenpatsu4/0606_iitate2.html )。住民不在の村のパトロールを実施しています。また7月には、避難先での自治会組織の検討を開始しました。公営宿舎や仮設住宅入居者を12の自治会に組織し、同時に「絆づくり支援職員」として役場職員を3人ずつ配置します。またそのうちの6自治会では、村との連絡調整にあたる嘱託の管理人として、村民を雇用もしています。9月16日には、自治会の連絡協議会も設立されています。このあたりは、原発事故前の協働まちづくりの経験が活きているのでしょう。
そして12月16日には、復興計画の第一版を公開。そこでは二年後の目標としして「一部・一次帰村の開始」。五年後には希望前村民の帰村の実現を目指しています。(復興計画は飯舘村HPに公開されています→http://www.vill.iitate.fukushima.jp/saigai/?p=1406 )
菅野村長はじめ、飯舘村を維持するための強い決意が伺えるのが、これまでの取組みでした。
■twitterでの呼びかけ
飯舘村の復興に向けた活動の、中心的な存在は20代若者が立ち上げました。「負げねど飯舘!!」です。活動経緯がウェブサイトにまとめられていますから、ぜひご覧下さい→http://space.geocities.jp/iitate0311/keii.html 。
設立のきっかけは、村の商工会青年部副部長をつとめていた29歳の佐藤健太さんのtwitter(@024442)です。原発事故以降の飯舘村の状況をつぶやきつづけた結果、6000人のフォロワーに注目され、様々な支援や応援が寄せられます。メンバーは、村に対して一刻も早い避難を呼びかけます。
■若い世代らしい対抗と協調
興味深いのは、行政と協調する姿勢を取り続けているところです。村に厳しい姿勢をとりつつも、余裕がない役場にかわってイベントを行なったり、「健康手帳」などの事業を一緒に取り組んだりもします。決起集会で決議文を採択した時にも、「怒りを噴出させない」という姿勢で、20-30代メンバーがシニアメンバーの意見を変えていったそうです。このあたりには、批判に終始しない今の世代らしい在り方(ポジ出し)がうかがえます。
ただしその後も、村役場と村民の意見は必ずしも一致しません。そのあたりは、4月18日にダイヤモンド・オンラインに掲載された菅野村長へのインタビューに様々な経緯が書かれています(http://diamond.jp/articles/-/17361 )。例えば、当初村が出した「2年での帰還」「除染費用3200億円」に対して、「二年で帰るのは無理」「それだけのお金があるなら住民に支給してほしい」などの声が一部であがったそうです。
■6000人だけの問題ではない
除染は効果的なのか。除染にそれだけの費用をかけて良いのか。除染できたとして帰還してよいのか。帰還しても生活は成り立つのか。様々な意見が飯舘村では交じり合います。いち早く帰村宣言を出した川内村も、3000人の人口の中で帰還したのは一ヶ月後で500人でした。そして買い物や病院といった生活インフラが十分整わない状況も続いているそうです。飯舘村も同様の問題は発生するでしょう。
一つの意見に収れんできない現実が、ここにあります。この問題を飯舘村の6000人の皆さんにのみ押し付けるべきではありません。日本人全体として、どのように支えるべきなのか。考え続ける必要があります。(5月5日)
■参考文献
千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない』(2012) 1460旅
菅野典雄『美しい村に放射能が降った 飯館村長・決断と覚悟の120日』(2012) 1461旅
『「までい」の心で村を復興させる 帰村を諦めては日本の恥だー菅野典雄 飯舘村村長インタビユー』 http://diamond.jp/articles/-/17361
『静まりかえった飯舘村の春』(JB PRESS) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35039
飯舘村の過去と現在(その1)
東日本大震災の復興要件の一つはコミュニティ形成/再生にあります。けして簡単ではないお題ですが、三県の中でも福島は一層の困難さがあります。見えない放射線の影響が心配される中で、除染がどこまで有効なのか。そして現実的に帰還できるか否かで、住民の中でも意見が分かれてしまうからです。コミュニティ支援を行なう上で、その現実と難しさをできうる限り理解する必要があります。
事例として取り上げさせて頂くのは、飯舘村です。原発から30km圏外に位置しながら、天候の影響で多くの放射性物質が村に降りかかり、全村が計画的避難区域に指定されています。この村はどのような村であって、今何が起きているのか。村長である菅野典雄氏の本と、長年村のアドバイザーとして村民と向き合ってきた大学教授の本からまとめてみます。
■いいたて夢創塾
1956年の昭和大合併の折に、飯曽村と大舘村が合併して誕生したのが飯舘村でした。当時の人口は11,403人。その後の人口減少は止まらず、2010年に6588人になっています。しかし平成の大合併の際に相馬郡としての合併は行わず、独立独歩の道を選択します。それは、菅野村長が中心となってオリジナリティある村づくりを実施できていた自負からでした。
きっかけは1986年にさかのぼります。村おこし推進を中心的に担うことになる「いいたて夢創塾」ができた年です。その初代塾長は、今の村長である菅野典雄氏でした。
この団体による企画で有名なのが「若妻の翼」プロジェクトです。海外旅行に行ったこともない村の女性を、ヨーロッパに視察に飛んでもらっています。その数は108人にもなり、彼女達が記した旅行体験記は7000部のヒットになりました。彼女達は村で主体性を発揮することになり、全国でも珍しい女性の農業委員会長になったり、村会議員になられています。そのうちのお一人は福島県内でも有数の珈琲店「椏久里」をオープンされました(飯舘村にあったお店は残念ながら閉店。今は郡山市で再開されておられます http://www.agricoffee.com/ )。
■まちづくりの目標としたい自治体に
夢創塾が起爆剤になったのでしょう、飯舘村は村と村民の協働のまちづくりのモデルような地域となります。
1990年には20行政区に100万ずつ公布して自主的な地域活動を促す「やまびこ運動」を実施。1992年には、323人の村民が参加してワークショップ形式で「地区白書」を作成。老人福祉、農林活用、住宅整備、伝統芸能保存などを村民主体で取組みました。
村は一地区あたり1000万円の事業費を保証し、一割は地元が負担。事業化にあたっては住民自らが審査を行いました。住民自治の観点で、飯舘村は国内でも先端的な地域であり、「今後のまちづくりの目標としたい自治体」に、福島県では三春町とともに推薦されてもいました。
市町村合併に関しては、村内でも意見が分かれましたが、結果的に自立を掲げた菅野村長が2004年に再選し、独立の道を歩むことになります。そうした中で発生したのが、2011年の原発事故に伴う計画避難区域指定でした。(続く)
■参考文献
千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない』(2012) 1460旅
菅野典雄『美しい村に放射能が降った 飯館村長・決断と覚悟の120日』(2012) 1461旅
『「までい」の心で村を復興させる 帰村を諦めては日本の恥だー菅野典雄 飯舘村村長インタビユー』 http://diamond.jp/articles/-/17361
『静まりかえった飯舘村の春』(JB PRESS) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35039
事例として取り上げさせて頂くのは、飯舘村です。原発から30km圏外に位置しながら、天候の影響で多くの放射性物質が村に降りかかり、全村が計画的避難区域に指定されています。この村はどのような村であって、今何が起きているのか。村長である菅野典雄氏の本と、長年村のアドバイザーとして村民と向き合ってきた大学教授の本からまとめてみます。
■いいたて夢創塾
1956年の昭和大合併の折に、飯曽村と大舘村が合併して誕生したのが飯舘村でした。当時の人口は11,403人。その後の人口減少は止まらず、2010年に6588人になっています。しかし平成の大合併の際に相馬郡としての合併は行わず、独立独歩の道を選択します。それは、菅野村長が中心となってオリジナリティある村づくりを実施できていた自負からでした。
きっかけは1986年にさかのぼります。村おこし推進を中心的に担うことになる「いいたて夢創塾」ができた年です。その初代塾長は、今の村長である菅野典雄氏でした。
この団体による企画で有名なのが「若妻の翼」プロジェクトです。海外旅行に行ったこともない村の女性を、ヨーロッパに視察に飛んでもらっています。その数は108人にもなり、彼女達が記した旅行体験記は7000部のヒットになりました。彼女達は村で主体性を発揮することになり、全国でも珍しい女性の農業委員会長になったり、村会議員になられています。そのうちのお一人は福島県内でも有数の珈琲店「椏久里」をオープンされました(飯舘村にあったお店は残念ながら閉店。今は郡山市で再開されておられます http://www.agricoffee.com/ )。
■まちづくりの目標としたい自治体に
夢創塾が起爆剤になったのでしょう、飯舘村は村と村民の協働のまちづくりのモデルような地域となります。
1990年には20行政区に100万ずつ公布して自主的な地域活動を促す「やまびこ運動」を実施。1992年には、323人の村民が参加してワークショップ形式で「地区白書」を作成。老人福祉、農林活用、住宅整備、伝統芸能保存などを村民主体で取組みました。
村は一地区あたり1000万円の事業費を保証し、一割は地元が負担。事業化にあたっては住民自らが審査を行いました。住民自治の観点で、飯舘村は国内でも先端的な地域であり、「今後のまちづくりの目標としたい自治体」に、福島県では三春町とともに推薦されてもいました。
市町村合併に関しては、村内でも意見が分かれましたが、結果的に自立を掲げた菅野村長が2004年に再選し、独立の道を歩むことになります。そうした中で発生したのが、2011年の原発事故に伴う計画避難区域指定でした。(続く)
■参考文献
千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない』(2012) 1460旅
菅野典雄『美しい村に放射能が降った 飯館村長・決断と覚悟の120日』(2012) 1461旅
『「までい」の心で村を復興させる 帰村を諦めては日本の恥だー菅野典雄 飯舘村村長インタビユー』 http://diamond.jp/articles/-/17361
『静まりかえった飯舘村の春』(JB PRESS) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35039
2012年05月03日
先進事例から、復興まちづくりを考える。〜『地域コミュニティ最前線』(1459旅その2)
前回エントリ『1960年代から現代にかけての、地域コミュニティ政策の歴史』(http://retz.seesaa.net/article/268285715.html )の続編となります。今回は、地域コミュニティの成功事例を紹介したいと思います。
なお、国内における自治会・町内会の数は30万弱(2008年時点)。行政の下請けに留まっていたり、担い手不足で機能していないケースも多いわけですが、求められる役割は増しています。震災復興の現場では尚更です。阪神大震災でも、行政がたてた復興計画をなぞるだけの自治会では復興に遅れが見られました。スピードを上げるためには、地域が主体となって、時に行政と議論を戦わせる必要があります。
意思ある復興コミュニティを作るために。事例をみていきましょう。
■企業連携と仕組み化〜『常盤平団地自治会』
無縁社会や孤独死が社会問題化しています。被災地でもそうですし、都市部の自治会・行政も問題意識はあります。しかし、なかなか解決できない現実があります。その中で、孤独死防止を日本で最も上手に実現できていると有名な自治会があります。千葉県松戸市にある、常盤平団地自治会です。
この自治会の特徴は、自分たち自身で全て対応しようとせず、周囲の企業と連携する点にあります。たとえば新聞各社の販売店と協定を結んでおり、配達の時に住民の新聞がたまっていたら自治会に連絡することとしています。また鍵屋とも覚書を交わし、非常時には無料で鍵を開けてもらえます。清掃協業組合とも提携。死亡された方がおられた場合の室内清掃やゴミ搬出を無料搬入で行います。身寄りのないお骨は、納骨堂に治める前に必ず自治会役員と都市機構職員が弔うルールにもしている徹底ぶりです。
行政に頼らず、しかし自治会が無理せずに、孤独死対策を実現しています。
■行政の巻き込み〜『大和市鶴間地区』
高齢化率の高まりの中で、地域の中で移動することが困難なお年寄りが増えています。その中で、独自に循環バスを運行させることに成功したのが、神奈川県大和市鶴間地区の7つの自治会です。
実現までのプロセスが参考になります。2008年10月に、7自治会が「乗合バス運行準備会」をまず発足します。その時には、超党派市議4名やNPOをアドバイザーにしました。その後2009年5月までに運行ルート案づくりと、住民説明会を実施。6月の試運転を経て、10月には大和市と協働事業としての協定締結を実現させています。そして2010年4月からの通常運行にこぎつけました。
必要な関係者を巻き込みつつ、最も重要な行政連携に必要なプロセスを意識しながら調整を進める様子がうかがえます。
■自主財源の確保〜『櫛原町柳谷町内会』
行政からの予算があてにならず、住民からの町内会費徴収も難しい昨今です。鹿児島県鹿屋市にある櫛原町柳谷町内会は、自らコミュニティビジネスを実施することで財源を確保しています。
町の中の遊休地をつかってカライモを生産。オリジナルの焼酎を販売して年間80万円の収入を得ています。また閉店したスーパーをギャラリーに改装し作品展示や活動拠点に。そうした活動により、2008年は800万円を売り上げました。町内会の活動費用、イベント開催、子供たちの寺子屋運営、独居老人向けの緊急警報装置も購入しています。町内会費も年7000円から4000円に減額し、2006年には一万円のボーナスを出したほどでした。
復興予算は数年で途切れます。コストとして使うのではなく、地域事業が成り立つための投資とする必要があります。
■若手世代を巻き込むマネジメント〜『立川市大山自治会』
コミュニティの中の代表性を維持するために、組織マネジメントも課題となります。高齢者ばかりで議論だけのサロンと化している自治会も少なくないでしょう。一方、運営方針の工夫によって、世代をこえた住民のコミットを実現させているのが東京都立川市の大山自治会です。
ここは、1200世帯の都営住宅にできた地域コミュニティです。多くのニュータウンがそうであるようにお年寄りが多く、高齢化率はすでに30パーセント。通常であれば高齢者ばかりの自治会になるところですが、自治会幹部の選び方を工夫しました。会長1名、副会長5名、会計2名について、30代〜70代の年代別に推薦投票を実施しています。仮に若者の投票率が少なくとも、意見が反映されるわけです。結果として、老若でまちづくりを進める雰囲気が醸成されました。
被災地では、若い世代の流出が大きな課題になっています。こうした手法を取り入れることで、若い世代が関われる地域づくりが求められます。
■情報発信が地域を動かす〜『平針南学区連合自治会』
最後は情報発信について。名古屋市天白区の、平針南学区連合自治会の事例が取り上げられています。
ここは2000戸の県営住宅につくられたものですが、当初は県の「御用自治会」でした。改革派自治会ができた1975年に発行されたのが平針ニュースです。自治会の危機に気づいていない住民に、状況を伝えるために作られた内容でした。
2009年段階で400号(!)も発行されていますが、コミュニティの質を改善する成果を出せています。例えば、団地内スーパーの価格が質に比して不当に高かった際、近隣4スーパーとの比較記事をニュースに掲載することで、結果としてスーパーのサービス改善を促しました。あるいは行政が錆びた水道管工事を怠ったために赤い水道水が出続けた時にも、水道料金支払停止をリードし、結果として県の行動を引き出しています。
■復興まちづくりの課題
企業や行政との連携。自主財源の確保。若手世代の巻き込み。情報発信。いずれも、被災地復興における大きな課題です。まだまだ情報も足らないでしょう。人手も足らないでしょう。単純にお金をつけて良しとせず、頭に汗を書きながら被災地コミュニティを支えることが、NPOなど外部支援者に求められています(5月3日)
■本日の一冊
中田実・山崎丈夫『地域コミュニティ最前線』(2010, 自治体研究社)★★★★(1459旅)
なお、国内における自治会・町内会の数は30万弱(2008年時点)。行政の下請けに留まっていたり、担い手不足で機能していないケースも多いわけですが、求められる役割は増しています。震災復興の現場では尚更です。阪神大震災でも、行政がたてた復興計画をなぞるだけの自治会では復興に遅れが見られました。スピードを上げるためには、地域が主体となって、時に行政と議論を戦わせる必要があります。
意思ある復興コミュニティを作るために。事例をみていきましょう。
■企業連携と仕組み化〜『常盤平団地自治会』
無縁社会や孤独死が社会問題化しています。被災地でもそうですし、都市部の自治会・行政も問題意識はあります。しかし、なかなか解決できない現実があります。その中で、孤独死防止を日本で最も上手に実現できていると有名な自治会があります。千葉県松戸市にある、常盤平団地自治会です。
この自治会の特徴は、自分たち自身で全て対応しようとせず、周囲の企業と連携する点にあります。たとえば新聞各社の販売店と協定を結んでおり、配達の時に住民の新聞がたまっていたら自治会に連絡することとしています。また鍵屋とも覚書を交わし、非常時には無料で鍵を開けてもらえます。清掃協業組合とも提携。死亡された方がおられた場合の室内清掃やゴミ搬出を無料搬入で行います。身寄りのないお骨は、納骨堂に治める前に必ず自治会役員と都市機構職員が弔うルールにもしている徹底ぶりです。
行政に頼らず、しかし自治会が無理せずに、孤独死対策を実現しています。
■行政の巻き込み〜『大和市鶴間地区』
高齢化率の高まりの中で、地域の中で移動することが困難なお年寄りが増えています。その中で、独自に循環バスを運行させることに成功したのが、神奈川県大和市鶴間地区の7つの自治会です。
実現までのプロセスが参考になります。2008年10月に、7自治会が「乗合バス運行準備会」をまず発足します。その時には、超党派市議4名やNPOをアドバイザーにしました。その後2009年5月までに運行ルート案づくりと、住民説明会を実施。6月の試運転を経て、10月には大和市と協働事業としての協定締結を実現させています。そして2010年4月からの通常運行にこぎつけました。
必要な関係者を巻き込みつつ、最も重要な行政連携に必要なプロセスを意識しながら調整を進める様子がうかがえます。
■自主財源の確保〜『櫛原町柳谷町内会』
行政からの予算があてにならず、住民からの町内会費徴収も難しい昨今です。鹿児島県鹿屋市にある櫛原町柳谷町内会は、自らコミュニティビジネスを実施することで財源を確保しています。
町の中の遊休地をつかってカライモを生産。オリジナルの焼酎を販売して年間80万円の収入を得ています。また閉店したスーパーをギャラリーに改装し作品展示や活動拠点に。そうした活動により、2008年は800万円を売り上げました。町内会の活動費用、イベント開催、子供たちの寺子屋運営、独居老人向けの緊急警報装置も購入しています。町内会費も年7000円から4000円に減額し、2006年には一万円のボーナスを出したほどでした。
復興予算は数年で途切れます。コストとして使うのではなく、地域事業が成り立つための投資とする必要があります。
■若手世代を巻き込むマネジメント〜『立川市大山自治会』
コミュニティの中の代表性を維持するために、組織マネジメントも課題となります。高齢者ばかりで議論だけのサロンと化している自治会も少なくないでしょう。一方、運営方針の工夫によって、世代をこえた住民のコミットを実現させているのが東京都立川市の大山自治会です。
ここは、1200世帯の都営住宅にできた地域コミュニティです。多くのニュータウンがそうであるようにお年寄りが多く、高齢化率はすでに30パーセント。通常であれば高齢者ばかりの自治会になるところですが、自治会幹部の選び方を工夫しました。会長1名、副会長5名、会計2名について、30代〜70代の年代別に推薦投票を実施しています。仮に若者の投票率が少なくとも、意見が反映されるわけです。結果として、老若でまちづくりを進める雰囲気が醸成されました。
被災地では、若い世代の流出が大きな課題になっています。こうした手法を取り入れることで、若い世代が関われる地域づくりが求められます。
■情報発信が地域を動かす〜『平針南学区連合自治会』
最後は情報発信について。名古屋市天白区の、平針南学区連合自治会の事例が取り上げられています。
ここは2000戸の県営住宅につくられたものですが、当初は県の「御用自治会」でした。改革派自治会ができた1975年に発行されたのが平針ニュースです。自治会の危機に気づいていない住民に、状況を伝えるために作られた内容でした。
2009年段階で400号(!)も発行されていますが、コミュニティの質を改善する成果を出せています。例えば、団地内スーパーの価格が質に比して不当に高かった際、近隣4スーパーとの比較記事をニュースに掲載することで、結果としてスーパーのサービス改善を促しました。あるいは行政が錆びた水道管工事を怠ったために赤い水道水が出続けた時にも、水道料金支払停止をリードし、結果として県の行動を引き出しています。
■復興まちづくりの課題
企業や行政との連携。自主財源の確保。若手世代の巻き込み。情報発信。いずれも、被災地復興における大きな課題です。まだまだ情報も足らないでしょう。人手も足らないでしょう。単純にお金をつけて良しとせず、頭に汗を書きながら被災地コミュニティを支えることが、NPOなど外部支援者に求められています(5月3日)
■本日の一冊
中田実・山崎丈夫『地域コミュニティ最前線』(2010, 自治体研究社)★★★★(1459旅)
1960年代から現代にかけての、地域コミュニティ政策の歴史。〜『地域コミュニティ最前線』(1459旅)
高齢化、経済悪化の中、地域の将来に不安を感じている人は、63%にものぼるそうです(日本世論調査会, 2009)。行政機能がますます縮小する昨今、地域コミュニティが果たす役割は増していく一方です。震災復興でも、防潮堤や道路などのハード整備が進む中、地域コミュニティが再生されるかが、復興のスピードに大きく影響を与えます。地域コミュニティ論の専門家が執筆した『地域コミュニティ最前線』(中田・山崎、2011)より、先端的な事例を紹介したいと思います。
個別事例に入る前に、今回のエントリーでは国内における地域コミュニティの歴史をおさらいしておきましょう。次回エントリーで個別事例を扱います。中田・山崎は、大きく3つの段階に流れを区分しています。
■1 地域コミュニティ概念の成立と形成(1960年代〜80年代前半)
日本のコミュニティ政策の原点として、国民生活審議会が『コミュニティ』報告を1969年に発表しています(http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/syakaifukushi/32.pdf )。都市化によるコミュニティ構築と、コミュニティ行政強化の必要性を訴えた内容でした。
この内容を受けて、71年〜73年には、小学校区単位で全国に83のモデル地区が指定されています。しかしコミュニティセンターという箱物中心の施策に留まっていました。
■2 地域コミュニティの位置づけの弱まり(1980年代後半〜90年代後半)
90年代初頭まではバブル景気もあり、再び国内はインフラ整備・都市再開発に傾いていきます。住民の繋がりも再び希薄化していきます。1990-92年の三カ年では141箇所のコミュニティ活性化地区がつくられて、環境重視、商店街活性化を盛り込んだまちづくり計画の策定が図られました。
95年の阪神大震災は、コミュニティ施策に強く影響を与えました。この年がボランティア元年と名付けられたこともあり、行政支援はNPOに傾いていきます。そのために地域コミュニティの位置づけは弱まることになりました。
余談ですが、復興庁にも「ボランティア班」はあるが「地域コミュニティ班」はないわけで、こうした流れの影響は今も続いていると言えます。NPOと地域コミュニティが分断されているのは、何より被災地域にとって不幸なことです。NPOは地域を支える存在になる必要があります。
■3 地域分権時代のコミュニティ政策(2000年以降)
歴史に戻ります。2000年には、地方分権一括法が施行されます。その流れの中で、自治基本条例によって地域自治組織が設置。そこに意見表明権や地域予算提案権を認めていく、分権型の地域政策が進められることになります。その後、総務省は2009年に「新しいコミュニティのあり方に関する研究会報告書」をまとめています。ここでは地域自治のコンセプトをおさえながら、NPO、事業所など多様なプレイヤーを巻き込む「地域協働体」という仕組みを提唱しています(ポイント版はこちら→ http://www.soumu.go.jp/main_content/000037077.pdf )。
住民主体による自主施策と、行政による公共政策(環境、福祉、農業、施設・・)。この二つを総合したものが地域におけるコミュニティ政策となります。震災復興でも同じ構造にあります。今は行政による復興計画がリードしていますが、住民自身が一つになって、自主的なコミュニティ復興計画を作り上げていく必要があるわけです。NPOは住民の情報発信や資金調達を支える存在になる必要があります。
本エントリはここまで。次回は事例紹介を致します。(5月3日)
■本日の一冊
中田実・山崎丈夫『地域コミュニティ最前線』(2010, 自治体研究社)★★★★(1459旅)
個別事例に入る前に、今回のエントリーでは国内における地域コミュニティの歴史をおさらいしておきましょう。次回エントリーで個別事例を扱います。中田・山崎は、大きく3つの段階に流れを区分しています。
■1 地域コミュニティ概念の成立と形成(1960年代〜80年代前半)
日本のコミュニティ政策の原点として、国民生活審議会が『コミュニティ』報告を1969年に発表しています(http://www.ipss.go.jp/publication/j/shiryou/no.13/data/shiryou/syakaifukushi/32.pdf )。都市化によるコミュニティ構築と、コミュニティ行政強化の必要性を訴えた内容でした。
この内容を受けて、71年〜73年には、小学校区単位で全国に83のモデル地区が指定されています。しかしコミュニティセンターという箱物中心の施策に留まっていました。
■2 地域コミュニティの位置づけの弱まり(1980年代後半〜90年代後半)
90年代初頭まではバブル景気もあり、再び国内はインフラ整備・都市再開発に傾いていきます。住民の繋がりも再び希薄化していきます。1990-92年の三カ年では141箇所のコミュニティ活性化地区がつくられて、環境重視、商店街活性化を盛り込んだまちづくり計画の策定が図られました。
95年の阪神大震災は、コミュニティ施策に強く影響を与えました。この年がボランティア元年と名付けられたこともあり、行政支援はNPOに傾いていきます。そのために地域コミュニティの位置づけは弱まることになりました。
余談ですが、復興庁にも「ボランティア班」はあるが「地域コミュニティ班」はないわけで、こうした流れの影響は今も続いていると言えます。NPOと地域コミュニティが分断されているのは、何より被災地域にとって不幸なことです。NPOは地域を支える存在になる必要があります。
■3 地域分権時代のコミュニティ政策(2000年以降)
歴史に戻ります。2000年には、地方分権一括法が施行されます。その流れの中で、自治基本条例によって地域自治組織が設置。そこに意見表明権や地域予算提案権を認めていく、分権型の地域政策が進められることになります。その後、総務省は2009年に「新しいコミュニティのあり方に関する研究会報告書」をまとめています。ここでは地域自治のコンセプトをおさえながら、NPO、事業所など多様なプレイヤーを巻き込む「地域協働体」という仕組みを提唱しています(ポイント版はこちら→ http://www.soumu.go.jp/main_content/000037077.pdf )。
住民主体による自主施策と、行政による公共政策(環境、福祉、農業、施設・・)。この二つを総合したものが地域におけるコミュニティ政策となります。震災復興でも同じ構造にあります。今は行政による復興計画がリードしていますが、住民自身が一つになって、自主的なコミュニティ復興計画を作り上げていく必要があるわけです。NPOは住民の情報発信や資金調達を支える存在になる必要があります。
本エントリはここまで。次回は事例紹介を致します。(5月3日)
■本日の一冊
中田実・山崎丈夫『地域コミュニティ最前線』(2010, 自治体研究社)★★★★(1459旅)
2012年05月02日
被災地の一年を知る〜『南三陸日記』(1458旅)
復興が進まないと言われます。もちろん現地ではそんなことはなくて、季節がめぐる中で、ゆっくりと被災地は変わりつつあります。しかしなかなか東北に足を運べない方にとっては、どのように変化しているかイメージが沸かないと思います。そんな皆さんに、今日は被災地の春夏秋冬を感じさせる一冊を紹介したいと思います。朝日新聞記者である三浦英之さんによる『南三陸日記』です。彼は2011年6月から一年近くに渡って南三陸に居住。毎週、朝日新聞全国版に南三陸のいまを綴っていました。
■青空コンビニ
変化を感じさせる一つは、コンビニエンスストア。セブン・イレブン志津川天王前店という店が震災前に存在していましたが、完全に流されてしまいました。しかし津波を免れた店長は、スタッフと共にテーブル1個からなる青空コンビニを5月に再開させています。(http://www.asahi.com/national/update/0511/TKY201105110210.html )。その後、夏からは仮設店舗での営業を開始。しかし冬にはボランティアが減ったことで売上が七割に減少してしまいます。そのこともあり、オーナーの19歳の息子さんが店長になったことも、記者は報じています。一年の変化が感じられます。
■「私をこのまま、お嫁さんにしてくれますか」
つよく心に残ったのは奥田江利子さんのエピソードです。今年の3月11日には、政府主催で震災追悼式典が行われました。その際に、宮城県遺族代表としてスピーチをされたのが奥田さん。Youtubeに動画が残されていますから、ご覧になっていない方は、静かな時間に一度視聴頂ければと思います(http://www.youtube.com/watch?v=-o-4iMBK--g )。
奥田江利子さんは離婚をされましたが、二人の両親と、息子・娘の五人で暮らされていました。しかし、津波によって四人を亡くされてしまいます。息子の智史さんは震災六日前の3月5日に結婚もされていて、奥さまの江利香さんは妊娠をされていました。彼女は、四人の遺体を前に泣き崩れる新郎の母に、こう話しています。「私をこのまま、お嫁さんにしてくれますか」。
■「最後の希望なんです」
三浦記者は江利子さんと江利香さんを一年間取材されていました。7月12日には江利香がお子さんを出産。新郎母であった江利子さんはこのように話されています。「生まれてくる子は、私の最後の希望なんです」。その時の様子も三浦さんは報道しています(http://digital.asahi.com/articles/TKY201203270464.html )。
3月11日の式典が終わった時、三浦記者は東京にいる江利子さんと電話で話されたそうです。『泣かないと決めてたんだけれども』彼女このように話し始めたそうです。『でも、読んでいるうちに、智史も梨吏佳の顔が何度も出てきて。まるでそばに寄り添ってくれているように思えて・・』
南三陸日記。被災地の移り変わりを知る上で、ぜひ手にとって頂きたい一冊です。
■参考文献
三浦英之『南三陸日記』(2012,朝日新聞出版)★★★★ (1458旅)
■青空コンビニ
変化を感じさせる一つは、コンビニエンスストア。セブン・イレブン志津川天王前店という店が震災前に存在していましたが、完全に流されてしまいました。しかし津波を免れた店長は、スタッフと共にテーブル1個からなる青空コンビニを5月に再開させています。(http://www.asahi.com/national/update/0511/TKY201105110210.html )。その後、夏からは仮設店舗での営業を開始。しかし冬にはボランティアが減ったことで売上が七割に減少してしまいます。そのこともあり、オーナーの19歳の息子さんが店長になったことも、記者は報じています。一年の変化が感じられます。
■「私をこのまま、お嫁さんにしてくれますか」
つよく心に残ったのは奥田江利子さんのエピソードです。今年の3月11日には、政府主催で震災追悼式典が行われました。その際に、宮城県遺族代表としてスピーチをされたのが奥田さん。Youtubeに動画が残されていますから、ご覧になっていない方は、静かな時間に一度視聴頂ければと思います(http://www.youtube.com/watch?v=-o-4iMBK--g )。
奥田江利子さんは離婚をされましたが、二人の両親と、息子・娘の五人で暮らされていました。しかし、津波によって四人を亡くされてしまいます。息子の智史さんは震災六日前の3月5日に結婚もされていて、奥さまの江利香さんは妊娠をされていました。彼女は、四人の遺体を前に泣き崩れる新郎の母に、こう話しています。「私をこのまま、お嫁さんにしてくれますか」。
■「最後の希望なんです」
三浦記者は江利子さんと江利香さんを一年間取材されていました。7月12日には江利香がお子さんを出産。新郎母であった江利子さんはこのように話されています。「生まれてくる子は、私の最後の希望なんです」。その時の様子も三浦さんは報道しています(http://digital.asahi.com/articles/TKY201203270464.html )。
3月11日の式典が終わった時、三浦記者は東京にいる江利子さんと電話で話されたそうです。『泣かないと決めてたんだけれども』彼女このように話し始めたそうです。『でも、読んでいるうちに、智史も梨吏佳の顔が何度も出てきて。まるでそばに寄り添ってくれているように思えて・・』
南三陸日記。被災地の移り変わりを知る上で、ぜひ手にとって頂きたい一冊です。
■参考文献
三浦英之『南三陸日記』(2012,朝日新聞出版)★★★★ (1458旅)
2012年05月01日
まちづくり協議会の必要性と、NPO
もう5月になりましたね。今晩は、被災地コミュニティにおける復興まちづくりについて整理しましょう。
■まちづくり協議会とは
阪神大震災では、コミュニティ単位で復興まちづくり協議会が設置されました。土地利用の在り方から、地域単位での復興プランまでこの組織で考えられています(http://web.kyoto-inet.or.jp/org/gakugei/kobe/key/ni1004.htm )。
キーワードは「代表性」です。地域には、自治会・婦人会・PTA・医療機関・NPOなど様々な団体がいます。その一部だけでコミュニティの方向性を決めることはできません。協議会に全ての関係者が一同に会し、丁寧に合意形成を進めます。そうした意思決定だからこそ、行政は尊重することができるわけです。
■阪神と東日本の違い
阪神大震災のときは、神戸市でまちづくり協議会は積極的につくられました。もともと住民自治が理解されていた地域だったからです。神戸市まちづくり条例は日本では先駆的に1981年に制定されています(http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/create/agreement/index.html )。
岩手でいえば、宮古市が自治基本条例を2007年に公布していますが、他の被災地域では制定されていません。自治体がリードする形での地区懇談会は開催されていますが、回数・期間も限定されており必ずしも代表性あるものといえません。神戸と比べれば遅れていますが、ここから復興まちづくり協議会の形成促進が求められています。
■代表性と交渉力が必要
『阪神・淡路大震災の社会学』p57の文章が、復興まちづくりを考える上で参考になります。PDFが無料ダウンロードできますからこちらを御覧下さい→http://www.showado-kyoto.jp/files/hansin3/307.pdf 。引用します。
(区画整理事業が)比較的スムーズに展開している地区では,「まちづくり協議会」がしっかりと存在している一方で,「考える会」など行政に対抗する住民勢力が強く,行政と対等な交渉において要求を出し,その一定部分を実現している場合である.「まちづくり協議会」の代表性と「考える会」などの交渉力があいまって住民の前向きの努力を引き出していくのである。
協議会だけつくって行政がスピードのみ重視すると、必ず一部住民の反発を招き結果として復興の遅れを招くとのことです。協議会設置と同時に、反対意見も可視化されていることが重要との指摘は、極めて参考になります。※なお『阪神・淡路大震災の社会学』は全部無料で読めます。(http://www.showado-kyoto.jp/news/nc1146.html )
■NPOから住民組織へ
さてもう一点。震災も一年が経過し、NPOではなく、「協議会」や「考える会」などの住民主体組織が主役になっていると改めて指摘したいと思います。NPOの資金不足が指摘される昨今ですが(http://mainichi.jp/feature/news/20120501ddm013100030000c.html )、個々の被災者・被災事業者はもっとお金が足りません。仮設住宅では数万円のお金を捻出して備品を入手しています。自治会も年間数十万の予算を得るために努力されています。NPOは提案力によって時に数百万〜数千万の資金を得ることがありますが、現地の方々から疑問の目線が投げかけられ始めています(「あの団体は国から税金もらっているんでしょ。私のところは何ももらえないのに」)。
これからは、地域自治会や協議会に対して数十万円の予算が振り向けられる必要があります。そうした住民組織はネットで情報を得たり、申請書を書くことが得意ではありません。NPOは、500-1000万の資金を得た上で、そうした組織を10-20と面で支援することが求められています。住民組織とけして「競合」すべきではありません。赤い羽根基金が15億円資金が残されていることを始め、複数の財団が数億円以上の財源を有しています。今後は、そうした中間機能をNPOが有しているかを冷静に見極めていく必要があります。(5月1日)
北上展勝地の桜より。藤沢撮影。


