2012年04月06日

若手世代が持つべき社会的責任とは何か〜湯浅誠辞任記より

「ノマドと結社の共通点」と題し、前回のブログでは若手世代と当事者性について書きました。(http://retz.seesaa.net/article/262108116.html )。ここで、当事者になった我々は、複雑な調整の現場に関わらざるをえないとまとめています。
 ただ間違えていけないのは、当事者とは「中の人」ではない、ということです。代議士、国家公務員、ベンチャー経営者、NPO職員といった肩書きを持つことが、当事者になることではありません。当事者であると自覚したこの瞬間から、調整を試みる必要があるわけです。そんなことを、湯浅誠さんの内閣府参与辞任記(http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html )をもとに考えてみます。

■小さすぎる政府
 湯浅さんの記事を紹介していきます。個人による社会への関わり方と、社会そのものを理解する上で重要な論点ばかりです。
『日本ほどの「小さすぎる政府」で世界一の高齢社会をやりくりしているような現状にあっては、(財源を)どこから持ってくるにしても、取られたところで深刻な生活課題を惹き起こす可能性が少なくありません。総じて、弱い者同士で限られたパイを奪い合う、という結果にもなりかねません』『公共サービスを設計・運営するのが公務員という当たり前のことが忘れられて、公務員批判が自己目的化しているような危機感を抱きます。(略)私は公務員を盲目的に擁護はしませんが、盲目的な公務員批判には反対です。それは結局、公共サービスを劣化させてしまうからです』

 日本は既に小さな政府だとの認識に共感します。新しい施策を行うことは、別の取組みをストップする事を意味するわけで、現実は「弱者間のパイ奪い合い」となっているわけです。実際、震災復興支援を行うNPO間での財源の奪い合いや、東北以外や海外の支援団体から悲鳴(湯浅さんの言葉でいえば"怨嗟")が聞こえています。社会問題の領域間で縄張りが生まれつつあります。

■自己責任論という、社会的無責任
 公務員批判にも、同じ構図が見えます。公務員は公共のために存在していますし、ほとんどの行政マンは献身的です。しかしカッコつきの"公務員"を敵と見なし、彼らを批判・削減することが社会のためと錯覚しているのが今の日本社会。その原因は何か。湯浅さんは、社会的無責任(=自己責任論)というキーワードから説明されています。自己責任という言葉の問題点について、改めて気付かされます。
『 私が巷の自己責任論にもっとも不満だったのは、それが社会の構成員としての、市民としての、主権者としての自覚を伴わない物言いだという点にありました。誰かを排除する社会に住みながら、自分もその構成員の一人でありながら、その自己に対する責任の自覚なく、自分とは関係ない誰か、とりわけ排除を受けている誰かの責任に帰して、自分は無関係だと考えるその無責任さに腹が立っていました。その意味で、いわゆる自己責任論は社会的無責任論であり、私が「貧困は自己責任ではない」という言葉で訴えていたのは、「本人の人生には一点の曇りもありません」ということではなく、「貧困は社会的無責任論では解決しない」ということでした』

 ここでようやく、「ニッポンのジレンマ」と湯浅誠さんの言葉が接続されます。あの番組の出演者達は当事者性を持っている、と前回書きました。いいかえれば、「社会的責任」を個人の立場から果たそうとされているわけです。

■民間こそ縦割り
 湯浅誠さんはさらに、政府・民間・個人それぞれの立場から何に取り組むべきかも示唆しています。
『医者が過労で倒れ、介護ヘルパーは低賃金でどんどん辞め、低年金・無年金で生活できない人が増え、非正規が増えているにもかかわらず、まともなセーフティネットが生活保護以外になく、本人や家族が課題を抱え込んで煮詰まり疲弊して残念な事件が頻発し、自殺も減らず、社会に閉塞感が蔓延している現状を少しでも変えるために、せめて小さな政府になるくらいの税と財政規模を確保しませんか、と言っているにすぎません』
『私は、解決すべき課題があるときに、それを誰かの責任にすることで自分は免責されるとする思考が嫌いです。(略) 私は基本的に民間団体の人間です。だから、民間の人たちは、行政の縦割りの弊害を指摘する以上に、自分たちの縦割りの問題に敏感であるべきと思います。縦割りの弊害打破は、行政とともに民間の課題です。そしてどちらが先にその弊害を打破できるか、競争のようなものだと感じています』

 湯浅さんは年越し派遣村村長として有名になった方ですから、一般には「左翼」「大きな政府論者」として括られていると思います。しかし湯浅さんは自分のことを「小さな政府論者」だと述懐しています。この巨大で問題を抱えた日本社会を支えるのに行政は十分とは言えません。もちろん変化は必要ですが、無闇な削減を是とせず、少なくとも「Aは減らすが、Bは増やすべき」とあわせた主張が必要になります。
 「民間の縦割り」も重要なキーワードです。自覚がないだけ、行政の縦割りよりも問題の根は深いといえます。震災復興で例を出しましょう。支援NPOは各市町村に入っていますし、産業復興・教育・医療などあらゆるテーマで活動しています。しかし、エリアやテーマを越えた連携は十分ではありません。特定地域や課題に集中している一方で、その隣町で起きている問題は見過ごされています。

■当事者としての自覚
 そして、個人も"当事者"であるべきだと、湯浅さんは主張しています。
『政府の中にいようが外にいようが自分は調整の当事者であり、「政府やマスコミが悪い」と批判するだけでは済まない。調整の一環として相手に働きかけたが結果が出ない―それは相手の無理解を変えられなかった自分の力不足の結果でもあり、工夫が足りなかったということです』

 当事者になる=政府の内側に入ることだと、我々は思いがちです。しかし湯浅さんは否定します。政府の中にいるのも外にいるのも関係ない。むしろ、自分が当事者であることを自覚し、膨大な調整作業に加わることが必要なのだと語られています。
 政治や被災地の中の人達を、観客として接していないでしょうか。電気を使用している以上、東京に住んでいる我々も福島原発の利害関係者となります。しかし、原発事故を「国」や「東電」の責任にして安心してはいないでしょうか。

■若手世代は、膨大な調整作業を乗り越えられるか
 「ニッポンのジレンマ」で見られるように、若い世代は当事者意識を持ちつつあります。それゆえにこれからは一個人・一組織に逃げ込むことはできず、調整の当事者として複雑な状況に絡め取られることになります。
しかし、若い世代は明るさをもって、ゆるやかな繋がりを武器にしながら、乗り越えることができる。そんなやや楽観的な展望を私は持ってもいます。
 湯浅さんは、「八の会」という、30-40代の"当事者"の集まりを開催されるそうです。私も参加させて頂くのですが、湯浅さんのこれからについて尋ねてみたいと思います。彼にとっての新しい調整をスタートされているでしょうから。(4月6日)

■参考文献
「内閣府参与辞任について」(湯浅誠からのお知らせ) http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html


posted by 藤沢烈 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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