2012年05月05日

飯舘村の過去と現在(その1)

 東日本大震災の復興要件の一つはコミュニティ形成/再生にあります。けして簡単ではないお題ですが、三県の中でも福島は一層の困難さがあります。見えない放射線の影響が心配される中で、除染がどこまで有効なのか。そして現実的に帰還できるか否かで、住民の中でも意見が分かれてしまうからです。コミュニティ支援を行なう上で、その現実と難しさをできうる限り理解する必要があります。
 事例として取り上げさせて頂くのは、飯舘村です。原発から30km圏外に位置しながら、天候の影響で多くの放射性物質が村に降りかかり、全村が計画的避難区域に指定されています。この村はどのような村であって、今何が起きているのか。村長である菅野典雄氏の本と、長年村のアドバイザーとして村民と向き合ってきた大学教授の本からまとめてみます。

■いいたて夢創塾
 1956年の昭和大合併の折に、飯曽村と大舘村が合併して誕生したのが飯舘村でした。当時の人口は11,403人。その後の人口減少は止まらず、2010年に6588人になっています。しかし平成の大合併の際に相馬郡としての合併は行わず、独立独歩の道を選択します。それは、菅野村長が中心となってオリジナリティある村づくりを実施できていた自負からでした。
 きっかけは1986年にさかのぼります。村おこし推進を中心的に担うことになる「いいたて夢創塾」ができた年です。その初代塾長は、今の村長である菅野典雄氏でした。
 この団体による企画で有名なのが「若妻の翼」プロジェクトです。海外旅行に行ったこともない村の女性を、ヨーロッパに視察に飛んでもらっています。その数は108人にもなり、彼女達が記した旅行体験記は7000部のヒットになりました。彼女達は村で主体性を発揮することになり、全国でも珍しい女性の農業委員会長になったり、村会議員になられています。そのうちのお一人は福島県内でも有数の珈琲店「椏久里」をオープンされました(飯舘村にあったお店は残念ながら閉店。今は郡山市で再開されておられます http://www.agricoffee.com/ )。

■まちづくりの目標としたい自治体に
 夢創塾が起爆剤になったのでしょう、飯舘村は村と村民の協働のまちづくりのモデルような地域となります。
 1990年には20行政区に100万ずつ公布して自主的な地域活動を促す「やまびこ運動」を実施。1992年には、323人の村民が参加してワークショップ形式で「地区白書」を作成。老人福祉、農林活用、住宅整備、伝統芸能保存などを村民主体で取組みました。
 村は一地区あたり1000万円の事業費を保証し、一割は地元が負担。事業化にあたっては住民自らが審査を行いました。住民自治の観点で、飯舘村は国内でも先端的な地域であり、「今後のまちづくりの目標としたい自治体」に、福島県では三春町とともに推薦されてもいました。
 市町村合併に関しては、村内でも意見が分かれましたが、結果的に自立を掲げた菅野村長が2004年に再選し、独立の道を歩むことになります。そうした中で発生したのが、2011年の原発事故に伴う計画避難区域指定でした。(続く)

■参考文献
千葉悦子・松野光伸『飯舘村は負けない』(2012) 1460旅
菅野典雄『美しい村に放射能が降った 飯館村長・決断と覚悟の120日』(2012) 1461旅
『「までい」の心で村を復興させる 帰村を諦めては日本の恥だー菅野典雄 飯舘村村長インタビユー』 http://diamond.jp/articles/-/17361
『静まりかえった飯舘村の春』(JB PRESS) http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/35039




posted by 藤沢烈 at 17:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/268617902
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック