2007年12月31日

74旅 『無境界』ケン・ウィルバー ★★★★★

「われわれが争いと対立の世界に住んでいるのは、われわれが境界の世界に住んでいるからである。すべての境界が同時に戦線だというところに、人間のおかれた苦しい立場がある。境界が強化されればされるほど、戦いは苦境に陥る。快楽に執着すればするほど、さらに苦痛を恐れなければならない。善を追求すればするほど、悪に対する強迫観念が強まる。成功を求めれば求めるほど、失敗を恐怖する。生に執着すればするほど、死はより恐ろしいものになってくる。何かに価値を見出せば見出すほど、その喪失が怖くなる。つまり、われわれが抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題なのだ」p42
「いま、この瞬間、あなたはすでに宇宙であり、現在の体験の全体性にほかならない。あなたの現在の状態はつねに統一意識なのだ。統一意識の最大の障害と思われている個別の自己は幻想にすぎないからである。分離した自己を破壊しようとする必要はない。最初からそんなものは存在しないからだ。(略)この洞察を説明する文章は無数にあるが、ブッダの有名な一説がそのすべてを物語っている。『あるのは苦しみのみ、苦しむ者はいない 行為はあっても、その行為者はいない ニルヴァーナはあっても、それを求める者はいない 道はあっても、それを旅するものはいない』」p97
「自分の行うことがすべて一つの抵抗、目をそらし、立ち去ることであることを看破した時点で、もはや自分を明け渡す以外、選択の余地はなくなってくる。しかし、あえてそうすることはできない。また、あえてそうしないこともできない。どちらも新たな立ち去る行為だからである。それは、一切何もできないことを看破したとき、自然におのずから起こってくる。(略)体験から立ち去らなくなると、もはや体験が通り過ぎていくものには思えなくなる。現在に抵抗しないということは、現在しか存在しないということである――はじまりもなければ、終わりもなく、前にも後ろにも何もない。記憶としての過去と期待としての未来が、両方とも現在の事実と見られるようになると、この現在をはさむ板金が崩壊する。この瞬間を取り囲む諸境界が、この瞬間へと倒れこみ、ほかにいくべきところのないこの瞬間だけが残る。禅の老師はいう。『億劫来の自己は 本来存在せず 死して他へは行かず すべて無一物』」p269
「霊的修行とは、数ある人間活動のなかの一つの活動ではなく、全人間活動の基盤、その源であり、全人間活動を支えるものである。それは超越的真実への先行する投機であり、一日24時間息づき、直観され、実践されるものである。真の自己を直観することは、初原の誓願にしたがって、自己の全存在を生きとし生けるものの自己の実現にかけることである。『いかに多くの存在があろうとも、その解放を誓う。いかに真実が比類なきものであろうと、その実現を誓う』」p272
ケン・ウィルバー『無境界』(平河出版社, 1986)

 1998年、私は狐の木というサロンを経営していた。関係していたメンバーは、実に様々な道を歩んでいる。どこか世の中の枠組みから外れ、自分を生きている者が多いことだけ、共通している。年末には西麻布の辰野まどかの実家に皆集い、朝まで飲みながら、一年を振り返り、来年を想う。私は来年何をするか言葉で出すことはできなかった。ただ、自分なりの生き様を歩めればと思った。
 ケン・ウィルバーの『無境界』は、2007年の最後に読んだが、そして最も自分に影響を与える一冊となった。内の悩みと外の戦いの理由。悟りの理解。それは修行の先になく、いまここに在ること。自分の過去と将来を繋げる役目を、この一冊は担ってくれた。
 大晦日の気分がそうさせるのかもしれない。ケン・ウィルバーを読んで、これからの自分の在り方を決めたくなった。彼が指すところの無境界。これを思想として語るのではなく、生き様として社会に現すこと。2008年に向けた、小さな決意である。

□参考ウェブサイト
『ケン・ウィルバー』



posted by 藤沢烈 at 15:54| Comment(1) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
古い記事にコメントして申し訳ありませんが、とてもよい記事だと思いました。
Posted by shogochiai at 2012年02月16日 14:24
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