「私は敢えて古い仏教語『心』を、現代の文化的普遍語『意識』にホンヤクし、そこに『意識=(心)』という一種の間文化的普遍論を構想しようとする。と言っても、『心』と『意識』のあいだにある意味のズレを消去しようとするのではない。むしろこのホンヤク操作によって、『心』の意味領域を『意識』の意味領域」に接触させ、両者のあいだに熏習関係を醸成しようとするのだ。(略)いつの日か、同様の試みが、もし巨大な規模で、自覚的・方法論的に行われることになれば、我々の言語アラヤ識は実に注目すべき汎文化性を帯びるに至るであろう。その昔、古代中国において、おびただしい数の仏教の経典や論書が組織的に漢訳された時、古典中国語に生起した間文化意味論的事態のように」pp63-64
井筒俊彦『意識の形而上学 『大乗起信論』の哲学』(中央公論新社, 2001)
読んでいる手が、震えて震えて仕方なくなる本がある。どんな本も何かしら感銘は受けるが、震えるほどの衝撃は2ヶ月に一回ぐらいだろう。前回は『意識と本質』であった。今回は、またしても井筒先生の著作からだった。
井筒先生は1993年に78歳で死去されている。しかしあと10年生きて欲しかった。彼は、東洋哲学覚書シリーズとして、古今東西の思想を現代版にえぐりなおそうとしていた。大乗仏教を切り開いた歴史的一冊である『大乗起信論』はその一冊目。その後、唯識哲学、華厳哲学、天台哲学と続き、その後イスラム哲学、プラトニズム、老荘・儒教、そして真言哲学へと展開される予定だったそうだ。
この一冊目の完成度の高さゆえに、その後の本をみることができないのが、残念でならない。本著が、井筒先生の遺作となってしまった。
彼が『大乗起信論』をいかに読みといたかは、ぜひ本文を参照されたい。私がこの半年かけてゆっくり学んできたことが、200頁にも満たない小編に全て詰まっているような、そんなくらくらする感覚があった。しかし、ここではその内容には触れない。引用では、そもそもの彼の狙いについて引用した。この狙い自体に、私は衝撃を受けた。
ヤスパースは「著者自身が知っていたことよりもより以上思惟される本がある」と言うわけだが、井筒先生は方法論にまで言及されている。言葉の意味を「あえて」現代で活きる言葉へと変換し、それがゆえに、古典を変化させ、現代も変化させる。トマス・アクィナスがギリシア哲学と聖書を統合したように。朱子が四書五経を体系化したように。30ケ国語をあやつり、禅修行者を親にもち、デリダと親交した井筒先生ならば、現代版のそうした取り組みを実現できたはずだ。
私ができることは限られている。こうした取り組みの意義をなんとなく理解できるのと、そのためのお膳立てを多少はできるかもしれない程度だ。こうした取り組みができる碩学の士を見つけ、最大限の応援をしていく。自分の役割が少しずつ見えてきた気がしている。
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□参考ウェブサイト
『井筒俊彦』
『大乗起信論』



私は理系のバックグラウンドなのですが、先日、この本を購入し、現在読んでいるところです。
以前、『意識と本質』を読んだときに、大学で物理を集中的に勉強したとき以来の、ここちよい頭の疲労感を感じ、以来、井筒先生には敬服しております。
様々なフィールドの人々に、今も影響を与え続けているのですね。
本当に、大きな構想を完結して頂きたかったです。残念でなりません。
井筒先生は、現代の空海のような方だったと思います。ノーベル賞どころではない、人類史上まれにみる逸材を輩出していたことを、日本人が気付く機会があれば、と思います。
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私も本を書いた。「おんな仏教」(2010.9)