2008年11月30日

693旅 K.ブランチャード、S.ジョンソン『1分間マネジャー』★★★★★

「『まず第一に、何かうまくやったら、即座に称賛が返ってくる』(略)『第二に、わたしがうまくやったことを正確に指摘しているのだから、こちらのことを真面目に受け止めてくれていることが分かるし、しかしも、わたしの仕事ぶりに上司も精通していることがわかる。第三は、彼の態度が一貫していることだ』」p52
K.ブランチャード、S.ジョンソン『1分間マネジャー』(ダイヤモンド社, 1983)

 MITスローンで組織行動学を教えていた著者による一冊。「1分でマネジメントできる」とのコンセプトの本。私も読んで感銘を受けた。
693.GIF

 部下のアクション前に、1分間の目標設定を行う。1分間だから重要なタスク少しのみの設定になる。また1分で読める内容だから、部下には始終この目標に沿って行動しているかを確かめてもらえる。
 アクション後、目標達成したら、かならず一分称賛する。目標未達成の場合は、未達成の状況について一分だけ叱責する。
 マネジメントの三つの要点を一分で行えるため、PDCAサイクルをシンプルにかつスピーディに回せることが利点の一つ。また部下が多くいたり、プレイングマネジャーを強いられていても、最低限のマネジメントを実行することができる。そして、部下にとっても明快であり容易にアクションに繋げることができる。
 長い時間を費やしたにも関わらず無駄に終わっているマネジメントがいかに多いか、を改めて実感する著作であった。是非活用してみたい。

□参考ブログ/ウェブサイト
「英語と書評 de 海馬之玄関」

posted by 藤沢烈 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月27日

685旅 岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』★★★★★

「おそらく我々の祖先の信仰、その日常を支えていた感動、絶対感はこれ(御嶽)と同質だった。でなければこんな、なんのひっかかりようもない御嶽が、このようにピンと肉体的に迫ってくるはずがない。――こちらの側に、何か触発されるものがあるからだ。日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感が生きているのだ」p169
岡本太郎『沖縄文化論 忘れられた日本』(中央公論新社, 1986)

 とある用事で昨日・今日と沖縄にいた。そのガイドにと岡本太郎の沖縄に関する本著を読んだのだが、沖縄をえぐりつつ日本を暴いているようで、素晴らしい。
685.GIF

 物質と精神面から沖縄文化面をながめてみる。今でも沖縄らしさを残す石垣は、一見ゴツコツしているが太陽の下では軽くシンプルである。あるいは装飾である紅型(びんがた)や闘牛のように、沖縄の自由や流動性を示す文化も残る。
 そして精神面。全くの空であるにも関わらず、いや空であるゆえに、神々しさを感じる御嶽(うたき)。岡本太郎は、そこに日本のルーツを見た。またリズミカルな琉球舞踊の中に、生の歓喜がこめられている様を注目した。
 見た目の静と動。その奥底の静と動。全てがあいまって、沖縄が形作られている。

□参考ブログ/ウェブサイト
「ORYZA喫茶室」
川端康成や三島由紀夫も本著を強く評価したとのことだ。

posted by 藤沢烈 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月26日

682旅その4 マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』★★★★★

「エコノミック・プロフィットは会計上の利益と類似して見える。しかし、会計上の利益が有利子負債のコストである支払利息しか勘案していないのに対して、エコノミック・プロフィットは有利子負債だけでなく、投下資産の機会費用をすべて勘案している点が異なる」p169
マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』(ダイヤモンド社, 2002)

 四回目。では本著のテーマである、企業価値評価にどのようなパターンがあるか、そして選択方法を検討しよう。
682_4.GIF

 基本はエンタープライズDCF法。複数事業のDCFを積み上げ、本部機能、負債分を引いて資本価値を算定する。それ以外は、目的に応じて使い分けられる。
 各年の企業価値を把握するためには、エコノミック・プロフィット(EVA/経済付加価値と同じ)を用いる。事業別のWACC算定が難しい金融機関向けにはエクイティDCFとなる。
 事業変動が大きい場合もDCFは適さない。資本/負債構成が変動する場合は、利子支払いは税金控除され節税効果がある点を加味して、APV(Adjusted Present Value)法を使う。また戦略自由度を保有していることでの価値を評価するためにはリアルオプションを検討する。
 資本市場において企業価値評価の役割が減ることはないが、ケースに応じて適切なフレームワークを使えるようにしたい。

posted by 藤沢烈 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

682旅その3 マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』★★★★★

「入札に応じて買収価格を提示する前に、買収価格に織り込むプレミアムをどのように取り戻すかをよく理解しておくべきだ。ユニークで、競合には実現できないようなシナジーを探すことが重要である。支払える上限価格を設定し、交渉のなかで、それを超えての支払いは最後まで避けるべきである」p150
マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』(ダイヤモンド社, 2002)

 三回目。企業価値評価のうえで、企業買収をいかに成功させていくかのステップを整理した。
682_3.GIF

 事前段階では、買収による効果を徹底検証する。ポジティブに捉えがちだが、顧客増加やコスト削減は思うように進まない。持込ではなく独自の買収候補リストを用意する。この段階は2-3年かかると考えるべきで、その意味では全ての企業が買収準備を今すぐスタートさせる必要があるのだろう。
 実施段階では詳細な価値評価を行いつつ、交渉に入る。買い手からみると、固有のシナジーがあれば優位に交渉できる。シナジーが一般的で他に買収希望他社がいると、余計なプレミアムが必要になるかもしれない。両社の利益を最大化させつつ、交渉を止めるラインを明確にすべきである。
 重要なのは買収後。スピードをもって株主・従業員・顧客などの利害関係者へのメッセージを打ち出す必要がある。
 一歩先の段階をみすえたクールな進行が、M&A成功のポイントになるのだろう。

posted by 藤沢烈 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月25日

682旅その2 マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』★★★★★

「業務管理のプロセスは、事業部門の目標設定と、その達成の進捗状況の定期的レビューからなる。目標に向けて組織内の異なる階層の人々が一丸となって働くのである。業績管理はしばしば、企業価値の管理の決め手となる。価値評価、バリュードライバー、さらには目標を日々の活動や意思決定に反映させるものが、業績管理の仕組みなのである」p118
マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』(ダイヤモンド社, 2002)

 二回目。企業価値を増大するための経営の方法論についてまとめてみる。
682_2.GIF

 基点は左上。現場・個々人の目標からスタートし、現場の方向性、経営の方向性が確立。そして経営レベルでの目標を達成できる・・という流れ。VBMを築く上では、逆に経営目標から議論を開始する。
 マクロレベルの目標では、従来のビジョンに加えて、現時点での株価やアナリストレポートに見合ったROIC/成長率を設定する。目標に従って、企業の方向性を再構築する。この段階で可能性の大きな将来価値も織り込む。
 続いてミクロレベルの検討。経営目標を左右するバリュードライバーの見極めがヤマであり、同時に目標達成を推進する組織を再設計。KPIに基づいて部門別に目標をセット。最終的に、個人の立場に応じた目標設定が行われる。
 経営の目標と、現場の目標に一貫性を持たせることで、一体感を醸成させていく。

posted by 藤沢烈 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

682旅その1 マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』★★★★★

「本社の経営層は、長期的な価値創造の目標を時価総額、あるいはTRSを用いて設定できる。戦略や機会の代替案、あるいは事業部門や企業全体の価値は、DCF法やリアルオプションによる本来の価値によって評価できる。本来の価値は、短期または中期的な財務目標、またオペレーション、および戦略上のバリュードライバーの目標へと置き換えることができる」p65
マッキンゼー・アンド・カンパニー『企業価値評価 バリュエーション』(ダイヤモンド社, 2002)

 100以上のビジネススクールで使われているという、企業価値評価に関するテキストが本著。私がマッキンゼーに入った頃に社内で第3版の翻訳作業が行われていた。今は第4版になっている。
682_1.GIF

 まずは無数にある企業価値指標の役割とその限界についてまとめた。
 TRS(Total Returns to Shareholders, 株主投資利回り)は投資実施時に目に入りやすいが、並の企業だが期待値が低いので高いのか、優れた企業だが期待値が高すぎるのかは不明。そこで、MVA(Market Value Added)を組み合わせる。
 しかし、本来投資は将来への見込みに行うもの。まずはマルチプル法を用いて利益見込みに持ちづく企業価値を出す。ただ多額の投資が必要な状況かもしれず、株主にとって重要なキャッシュフローを重視したDCF法の方が面倒でも正確になる。
 DCF法で企業価値は出せるが、キャッシュフローがマイナスでも将来への投資を見込んでいるかもしれない。プラスでも、設備を売り払っているのかもしれない。より事業性を見極めるために、ROICと利益成長率を組み合わせて現状を理解する。
 最終的に、今後の事業の行く末をつかむために、業績の先行指標となるバリュードライバーを知ることが不可欠となる。
 株価から、事業の足元のKPIに至るまで、一貫性をもって把握しておく必要がある。

□本著を紹介したブログ
「コンサルタント、ビジネスパーソンとして20代に読みたい本」

posted by 藤沢烈 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

647旅 三木成夫『内臓のはたらきと子どものこころ』★★★★★

「"あたま"は"こころ"の目覚めを助ける。それは遠く指差しに源を発し、ついで言語習得の覚束ない舵を取りながら、やがて独り言が無声化してゆく三歳児の世界でついてに一人立ちし、ここに『自己』が産声を上げる。後年『自我』の跳梁に虐使される歴史人が、深い郷愁の念をもって振り返るのが、あの先史時代であるが、三歳児の世界は当時のおもかげを再現するのではないかと思う」p148
三木成夫『内臓のはたらきと子どものこころ』(築地書館, 1982)

 形態学・解剖学の大家であった三木成夫による講演をまとめた一冊。内臓感覚とは何か? 内臓と自然とこころの関係、そして幼児がいかにこころを形作るかがまとめられている。生命観・人間観を一新させてくれる素晴らしい本だ。
647.GIF

 その中から幼児の成長にともなって、こころがいかに進化していくかをまとめる。
 まずは、這い回りながら様々な物をなめまわす。その事で空間的な形を理解するとともに、ばい菌を多少体内に入れることで逆に免疫を持っていく。この後がポイント。半年を過ぎると、幼児は物を指しながら「アッアッ」と言葉にならない発声をする。これは、経験と目の前の印象が重なることで起きる動作であり、ここが心の目覚めだという。心が目覚めることで、自分以外の物体の理解を試み始め、身近そして遠くの物への関心がでてくる。その結果、遠くをみるために「立ち上がる」のだという。
 次に1.5歳ごろになると、ものに対して、なまえをつけ始める。同時に母父に対して、何にたいしても「なーに」と聞き続けるようになるという。ここが言語の発生の瞬間。
 さらに2.5歳になると、なまえを付けるにとどまらず、時間的な変化の理由を疑問に思うようになる。そのため「どーして?」という問いかけが開始され、結果的に自意識が生まれるようになる。
 こうした三歳頃までの幼児の成長を観察することによって、動物がいかに人間に進化してきたのかを、早送りで確認することができる。一人の人間の誕生と成長は、人間の進化プロセスを象徴しているのである。

□参考ウェブサイト
『三木成夫』

posted by 藤沢烈 at 17:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

639旅その3 湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』★★★★★

「ヨーガではクンバカといって吸気を長くとめておく訓練を重視する。佐保田鶴治氏によると、クンバカを最初から極端に行うと一時的に眼がみえなくなったりするという。そこで日を追って少しずつ長くしてゆくのであるが、少し進歩すると、発汗や身体のふるえが止まらない状態、胃の刺すような痛みなどが起こる。この段階を通り越すと、心身ともに安定した状態に至るという。訓練中に起こるこれらの現象は、皮質と自律系機能の間に結合路が形成される経過現象を示すものと考えられる」p293
湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』(講談社, 1990)

 第三章が凄い。三木・吉本・崎谷でみてきた大脳(体壁系)、内臓(腸管系)の関係についてまとめられていたし、さらに踏み込んでいる。生理心理学の科学的な知見と、フロイト来の深層心理学の知見、そしてベルグソンらの哲学の知見らを構造化してみせているのだ。
639_3.GIF

 本著の主題である、西洋科学の知見と、東洋思想からヨーガの関係をまとめた。
 縦軸は、ヨーガの八段階を示しており、横軸に大脳に代表される表層面と、内臓/自律神経に代表される基底面とに分けた。
 1-2では頭、3では肉体を停止する。いずれも表層に属するカテゴリーだ。
 凄い考察は4の呼吸法について。呼吸は自律的に行われるし、かつ意識的に止めたりもできる、表層と基底が交わる場所。この呼吸を利用することで、無意識領域をコントロールすることに近づけるのだという。
 本当かどうか分からないが、ヨーガ行者は、自律神経がつかさどるはずの心臓の脈拍を変えたり、食道の大きさを変化(!)させることもできるという。
 自然科学は脳と心の問題にかなり接近しているようだ。無意識をコントロールして、クリエイティブに活用することが当たり前になる時代も近いのかもしれない。

□参考ウェブサイト
『自律神経系』

posted by 藤沢烈 at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

639旅その2 湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』★★★★★

「悟りの体験においては、このように、自己の身体と他者の身体、また人間の身体と仏の身体の区別はない。身体はいわば形而上的身体に化しており、日常的次元に見出されるその客体的性格を全く失ってしまう。修行は日常的経験の次元における意識の立場を否定し、克服してゆく企てであった」p209
湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』(講談社, 1990)

 第二章では、修行にフォーカスして身体論が展開される。冒頭でインド・中国・日本にみられる修行のルーツが説明された後、具体例として道元と空海による修行への考え方が説かれる。
639_2.GIF

 いずれにも共通しているのは、自我・認識主体の日常的経験の次元から、あくまで存在主体の場所的経験の次元に向かう方法論が「修行」であるということだ。
 空海の場合は、三密である身体・言葉・心を活用し、生きたままに仏に成ることを目指した。道元の場合は、ただひたすらに坐禅に取り組むことによって、身体と意識がいずれも消える(一体となる)状態を目指した。
 環境問題が取りざたされ、ガイア仮説なども出てきてようやく世界で人間と自然の共生がうたわれてきた。そうした視点は、思想的にも実践的にも1,000年以上前に極められていたのである。

□参考ウェブサイト
『空海』

posted by 藤沢烈 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

639旅その1 湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』★★★★★

「身体の中に埋もれた暗い意識の層を照らし出すにつれて、身体はその重さを失い、心のはたらきに抵抗するものではなくなる。だから私の身体は、私にとって一見なくなるように感じられるのである。(略)それと同時に、私の心は客体に相対立する主体という性格を失うに至る。こうして客体としての身体が主体化されると共に、逆に心は客体に対立する主体、すなわち自我意識というあり方を失う。『われなきわれ』ともいうべき無我の三昧境に入るのである」p89
湯浅泰雄『身体論 東洋的心身論と現代』(講談社, 1990)

 東洋哲学、深層心理、気などの研究者。日本ではあまり知られていないようだが、本著はもともと海外で出版され読まれていた。近代日本の代表的な哲学者である和辻哲郎・西田幾多郎とハイデガー・フッサールなどとの比較、道元や空海にみられる修行の意味、医学的視点からの心身論など、本書の射程は広い。
639_1.GIF

 西洋思想は自我/自意識を一義として、自然は二義的に捉える。一方、東洋思想では自然こそ一義的であって、自分はその一部分に過ぎないと考える。西洋では「認識と時間」を重視し、東洋では「存在と空間」を重視することから、この違いが生じるとする。
 認識は、まず自意識からスタートする。時間の経過とともに、自分の周囲の世界を認識していく。時間軸でいえば、あくまで世界は二義的なのである。
 一方、存在からみれば、まず世界からはじまり、その中に自分がいることになる。空間軸でいえば、あくまで世界が一義的であり、自分はその一部なのである。
 西洋では神に似せて人間が作られたのであって、人間は自然と切り離された絶対的な霊長類ととらえる。東洋では、草木や動物と人間は全て繋がった存在だ。
 古代から近現代に至るまで、両者は別の道をたどってきた。

□参考ウェブサイト
『湯浅泰雄』

posted by 藤沢烈 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月23日

605旅-2 伊東光晴『ケインズ』★★★★★

「消費者は何割貯蓄するかをきめることはできる。しかし貯蓄の総額はきめることはできない。動くのは所得(産出高)であるという、このケインズの理論は、貯蓄をふやそうとする個人の努力は、経済の規模を縮小し、所得を低め、結果として失業を生み出すという、今まで考えつかなかった結論をひきだした。貯蓄は美徳でないかもしれない。このような考えが経済思想史の上で与えた影響は実に大きかった」p127
伊東光晴『ケインズ』(岩波書店, 1962)

一続き伊東の『ケインズ』より。ケインズの代表作は『雇用・利子および貨幣の一般理論』であるが、前回の雇用に続いて、利子の一般理論を見てみよう。
605_2.GIF

 今度は縦軸が利子率であり、横軸は投資と貯蓄の大きさになる。
 古典派経済学では、意図的に利子率を引き下げると、赤線に移動する。結果、投資ニーズに対して、貯蓄による資金供給が不十分な状況に陥ると考える。従って古典派では、政府による意図的な金利の介入は必要がない、との立場であった。
 一方ケインズ。利子率を引き下げると、古典派同様、投資がまず上昇。古典派と異なるのは、投資と同時に所得も増大するのであり、結果として貯蓄も投資並みに引きあがると考えたのである。こうして、政府は賃金引下げをやるのは根本的誤りであり、金利引き下げによる需要拡大を狙うべきだとケインズは主張した。
 但しこの主張は、金利引き下げにより経済が拡大することが前提。経済成長がストップした先進国では当てはまらない状況が続く。

□参考ウェブサイト
『ケインズ経済学』

posted by 藤沢烈 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

605旅 伊東光晴『ケインズ』★★★★★

「人に雇われて働いている労働者は何時間働くかを自分できめることはできない。雇われた人は、きまった労働時間を働き、他のものは背中の痛みはないから働きますといっても、工場には入れてくれないのである。このように伝統的な理論は、資本家も労働者もいない社会を前提とした理論であった。資本主義以前を前提とする理論でありながら資本主義特有の失業という現象を分析しようとしたところに、伝統的理論の無理があったのである」p101
伊東光晴『ケインズ』(岩波書店, 1962)

 理論経済学の大家によるケインズの解説書。発売以来50年近くが経過しているが、いまだにこの本を超えるケインズ入門書は出ていないようである。
605.GIF

 ケインズの出発点は、大恐慌時代における失業への解釈であった。
 縦軸に労働者の賃金の高さ、右に労働/雇用量をとってその関係をみている。ケインズ前の経済学では、図の中で赤線を引いたように、給料が高すぎることで、労働してほしいにも関わらず働かせられないバランスを欠いた状態だと考えた。従って、労働組合などの関与を減らすなどすれば、賃金は落ち着き、失業者も減ると考えていた。
 ケインズはそうした考えを真っ向から否定した。その論理を説明してみる。
 古典派の理論は、あくまで一人で稼ぐ農夫が一日の労働量を増減させる場合にマッチする考え。しかし資本主義経済では、労働者が勝手に労働量をコントロールできない。つまり、右図の現状の赤線のように、労働需要と供給および賃金はバランスしてしまっているのであって、賃金を減らせば需要が増える状況にはないとケインズは考えた。そこで、まずは完全雇用が成り立つまで需要を拡大させることが先決であり、賃金の問題はその後だと結論づけた。
 そして、ケインズが取った政策は国が公共事業に赤字でも構わないから投資をすることであった。まさに日本もケインズの影響を受けて高度経済成長を果たしたわけだが、借金は膨張しすぎ、ケインズの理論を超えた状況に陥っている。

□参考ウェブサイト
『ジョン・メイナード・ケインズ』

posted by 藤沢烈 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

594旅 レヴィ=ストロース『野生の思考』★★★★★

「呪術的思考や儀礼が厳格で厳密なのは、科学的現状の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するより前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないだろうか?そうなれば、呪術の儀礼や信仰はそのまま、やがて生まれ来るべき科学に対する信頼の表現ということになるであろう」pp15-16
レヴィ=ストロース『野生の思考』(みすず書房, 1976)

近代合理主義が信じ込まれていた時代に、前近代的であるはずの未開人の思考の優秀さを示した歴史的一冊。最終章には、サルトルからの批判に対する回答も掲載されており、その内容でもフランス思想界にショックを与えた。
594.GIF

 未開人がもつ「野生の思考」とは単に非科学的でも前進歩的なのでもなく、科学的思考と両立しかつ先進的な思考なのだと、レヴィ=ストロースは考えた。
 そもそも科学的・論理的思考は最先端でもなんでもなくて、新石器時代に土器や農耕を発明した思考とほぼ同等と考える。既成の知見に基づいて、再現性のある行動を繰り返すだけのこと。
 野生の思考あるいは呪術的思考とは、人間が原因をつかめていない出来事において、構造化・配列化・体系化を図っていく視点。また分かりやすい物体だけでなく人の意識・心も射程においた包括的な思考だという。
 そして、野生の思考によって体系化が進むからこそ、その後に科学的発見に繋がるのだという。
 科学的発見がなされた後の今から振り返れば、野生の思考は穴だらけに見えるが、ある種の仮説だったのだから当たり前のこと。先の時代において科学的にも人類が発展するためには、今この瞬間に野生の思考による取り組みが必要になる。

□参考ウェブサイト
『クロード・レヴィ=ストロース』

posted by 藤沢烈 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月18日

592旅 中沢新一『アースダイバー』★★★★★

「東京を歩いていて、ふとあたりの様子が変だなと感じたら、この縄文地図を開いてみるのである。するとこれは断言してもいいが、十中八九そのあたりはかつて洪積層と沖積層のはざまにあった地形だということがわかる。(略)天皇家の所領となっていたそのような土地を戦後になって買い占めた大資本が、都内有数のホテルを建てたりしているが、そのあたりはかならず特有の雰囲気をかもし出している。つまりそういう場所からは、死の香りがただよってくるのだ」p15
中沢新一『アースダイバー』(講談社, 2005)

 最近毎日10kmぐらい走っているのだが、都内の様々な場所を巡るようにしている。走りながらの感覚と、この本の示す話が結構当たっていて興味深い。
 中沢新一による、縄文時代の地形と現在の文化風土を比較したのが本著だ。
 縄文時代には海水が入り込んでいた沖積層を青色、地盤が固く縄文期にも陸であった洪積層を肌色にし、マッピングした東京地図が本著には付いているが、その一部を引用した。
592.GIF

 今の丸の内辺りから東は全て海であり、西もところどころ海面下にあったことが分かる。そして、多様性を秘めている場所ほど、沖積層あるいは洪積層と沖積層のはざまであることが分かる。
 例えば新宿で言えば、歌舞伎町は海だが、伊勢丹のある新宿三丁目は陸。表参道・青山は陸だが、原宿・渋谷は海、といった具合。神楽坂や六本木はちょうど境目にあたる。
 都市こそ人間が意識的・合理的に造られたように見えて、実は縄文期の地形・風習から歴史の影響を受け続けている。そんな発見ができる素晴らしい本だ。

□参考ウェブサイト
『はじめての中沢新一。』(ほぼ日刊イトイ新聞)

posted by 藤沢烈 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月15日

582旅その2 ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』★★★★★

「ポイントは、人は、たとえば微細な光、元因的な『空』という深い至高体験、スピリチュアルな体験、瞑想的な体験を経験できるが、その体験を、自分が今おかれている発達段階のツールで解釈するということである。したがって『状態』を、呪術段階の人は呪術的に、神話段階の人は神話的に、多元的段階の人は多元的に解釈する。(略)しかし5つの主要な意識の状態は、最初から獲得可能である。なぜなら、人はどの段階にあっても、覚醒し、夢見、眠るからである」P132
ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』(春秋社, 2008)

 その1に続けて、ウィルバーが意識レベルを「状態」と「構造/段階」に分けた意味合いを説明したい。
582_2.GIF

 縦軸に意識の状態(粗大〜非二元)、横軸に意識の段階(ここでは三つの段階だけクローズアップした)をとる。
 まず、どの段階の意識も、粗大〜非二元までのあらゆる状態を体験できる。ただし、その状態を後で振り返るときには、自分の意識段階に依存してしまう。例えばレッド/神話的な人が悟りの境地をえても、神と交流できたと解釈するにとどまる。オレンジ/合理的な人の場合は、霊的段階を理解しつつも現実との境界を明確に区切ることができる。ターコイス/超合理的な人は、他の世界の精霊や世界の合理性を統合的に捉えることができる。
 さて問題は、意識の状態が表層にとどまりながら、意識の高い段階を理解することができるか、である。
 例えばオレンジ/合理的な人は、本を読んで頭で分析的に超合理的な世界を理解しようとするかもしれない。しかしそれはオレンジの頭で分かった気になるだけで、けしてターコイスに進んだわけではない。ステージをあげるためには、一度自分の段階を捨てて無の状態(非二元)に入り込まなければ、進むことはできない。
 合理的な世界になれば、生まれ来る次の世代はオレンジな人間に発達できる。ただし、それは独力でオレンジに到達した先覚者がいたからである。次世代の意識段階を進化させるためには、現代からどれだけ先覚者が生まれるかにかかってくる。

□参考ウェブサイト
『スピリチュアリティ』

posted by 藤沢烈 at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

582旅その1 ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』★★★★★

「私の直接の第一人称経験において、黙想の現象的な状態は、『私は岩を見ている』という粗大な現象から、『私は光と幸福感に包まれ大きな愛を感じている』という微細な現象へ、『ただここには、広大な空、無限の深淵がある』という原因の現象へ、そして『神聖な空と相対的な色は二つではない』という非二元にへと展開する」p114
ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』(春秋社, 2008)

 今年出版されたウィルバーの最新刊。ウィルバーが示すスピリチュアリティとは、怪しげな心霊主義ではなく、合理性を超えた意識レベルのことを指す。
 本著の一つの主眼は、意識レベルを「状態(state)」と「構造(stage)」に分けたことにある。その意味は後述するとして、まず意識の状態について説明したい。
582_1.GIF

 意識の状態とは、一人の人物が瞑想などによって変化する意識をさす。通常意識は「粗大」であり、夢をみれば「微細」。瞑想が進むと「元因」「非二元」を経験することも可能になる。(通常は経験を実感できない)
 井筒理論に照らせば、粗大はA表層、微細はM中間層、元因はBアラヤ識、非二元はC無と対応するだろう。
 井筒氏も、禅や密教のアプローチによって、A,M,B,Cを人の意識は行き来することを説明した。同様に、この意識の状態も、その場その時と手法によって自由に行き来することができる。

□参考ウェブサイト
『意識』

posted by 藤沢烈 at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

579旅 ケン・ウィルバー『エデンから 超意識への道』★★★★★

「自我期の人間がスフィンクスのまえで立往生することがあったとしても、当時の進化した魂、たとえば仏陀、クリシュナ、キリスト、老子などにとっては究極の因果関係は自明のことであり個人的な神をこえた空の世界がみえたはずである。自我期以前にこのような覚醒に至ることは不可能であった。人間の意識が全体としてある程度のレベルに達して初めてこのような高い境地に至る者がでてきたのである」p225
ケン・ウィルバー『エデンから 超意識への道』(講談社, 1986)

 初期のウィルバーが1981年に出版した一冊。超意識の成立について、歴史的に捉えている。
579.GIF

 超越した意識を、ウィルバーは三段階で捉えた。一つはニルマナカヤ。シャーマニズムとアニミズムに代表され、一時的にトランス状態に陥って超意識を体感するレベル。次はサンボガカヤ。聖人と呼ばれ、光と音の認識の中で、唯一神を意識するレベル。さらに次はダルマカヤ。賢人と呼ばれ、主客・神人が融合し、体感することなく空を感じるレベル。
 図のように、それぞれのレベルに達した先覚者は各年代に極わずかに現れる。そうした感性が広くいきわたり始めると、意識は次の段階に進む、といった具合である。
 「自我」「我と汝(絶対者)」といったモーセ的なコンセプトが人類にいきわたった状態が現代といえるだろう。今後は、イエス・仏陀的な神人融合する感性をもった人々が急速に増えていく。そうした世界での精神的リーダーは、どのような存在になるのだろう。

□参考ウェブサイト
『シャーマニズム』

posted by 藤沢烈 at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月13日

577旅その2 ケン・ウィルバー『眼には眼を』★★★★★

「問題は、たとえば、前合理的と超合理的は、いずれもそれぞれ独特の意味で非合理的であるため、未熟な目にはそれらが同様なものに見えたり、時には同一のものにすら見えるということにほかならない。いったんこの混同が起こると、必然的に、次のいずれかのことが起こる。超合理的領域が前合理的状態に還元される、あるいは、前合理的領域が超合理的栄光へと引き上げられる」p341
ケン・ウィルバー『眼には眼を』(青土社, 1987)

 本著より、パラダイムの包括に向けて解決すべき、もう一つのポイントを紹介しておきたい。「前/超の虚偽」である。
577_2.GIF

 図は精神の発達構造を示していて、1物質から始まり、2身体、3魔術的(幼児的)・4神話的心の状態を経て、5で自我が芽生える。そして精神的な高みに上っていく。
 さてウィルバーの前/超の虚偽とは、自我以前の前合理的状態と、自我以降の超合理的状態を混同する点にあるという。たとえばフロイトは、霊的高みもすべて魔術的なものと一蹴するため、仏陀やキリストもすべてカルト宗教に還元されてしまう。
 また同時にユングは神話的でしかないイメージを全て元型的に捉えるため、本来未熟な状態へ高い評価を与えてしまう。
 精神的なテーマを検討する際には、科学側からも精神側からも極端な意見が出てしまうケースが多く、そうした「混同」を避けるための論理をかためておく必要がある。 

□参考ウェブサイト
『ジークムント・フロイト』
posted by 藤沢烈 at 16:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

577旅その1 ケン・ウィルバー『眼には眼を』★★★★★

「ガリレオとケプラーが宗教を相手に肉の眼についてやったことを理知の眼についてはカントがやりとげた。すなわち、ガリレオとケプラーが宗教からそのばかげた"科学的"あくたを拭い去る手助けをしたのに対して、カントは宗教からそのばかげた合理化を拭い去る手助けをしたのだ」p38
ケン・ウィルバー『眼には眼を』(青土社, 1987)

 1982年に出版されたウィルバー33歳での作品である。宗教・心理・歴史・社会学などを包括するパラダイムを打ち立てる上で、議論の障害となるポイントを挙げている。「前/超の虚偽」「構造と段階の混同」などがあげられるが、本著のタイトルにも関連する「範疇錯誤(カテゴリーエラー)」について説明してみたい。
577.GIF

 ウィルバーは、世界への視点を三つに分類した。肉の眼は、空間・時間・物質を捉えるための視点であり、経験主義の立場になる。理知の眼は、哲学・論理・心理を扱う視点で、合理主義の立場。そして黙想の眼は、超越者をみる目線であり、神秘主義の立場である。
 ポイントは、互いに同列に議論をするとカテゴリーエラーを起こす点にある。その事を厳密に説明した著名人が何人かいる。中世の教会合理主義に対して経験できる物質世界の現象を分けて議論することを説明したヘーゲルやガリレオ。合理的思考において、絶対者を捉えることはできないとしたカントやウィトゲンシュタイン。二人に遥か先行していた龍樹。
 彼らの成果によってカテゴリーは厳密にされた筈だが、実際にはエラーは多い。物質的にも神が見えるとしてしまう宗教原理主義者や、超越者を存在しないと言い切ってしまう科学者である。
 見方や検証方法は、眼によって変える必要があることをウィルバーは諭す。 

□参考ウェブサイト
『イマヌエル・カント』

posted by 藤沢烈 at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月12日

576旅 ケン・ウィルバー『意識のスペクトル 2.意識の深化』★★★★★

「この瞬間、われわれはつねにすでに『瞬間の死』に苦しんでおり、つねにすでに、未来をもたない"それ"に目覚めているのである。未来をもたない"それ"とは、過去をもたない"それ"であり、それはすなわち、時間的な始まりも終わりもない"それ"であり、生まれてくることも死んでいくこともない"それ"である。(略)つねにすでに、今の死に苦しみ、われわれは、つねにすでに、永遠に生きている。探求はつねにすでに終わっているのである」p266
ケン・ウィルバー『意識のスペクトル 2.意識の深化』(春秋社, 1985)

 『意識のスペクトル』の第二巻。第一巻は「意識の進化」がテーマであり、第二巻のテーマは「意識の深化」である。
 スペクトル状に構造化された意識だが、本著において本来の姿である非二元的状態に至るための道が模索される。
576_2.GIF

 主客が分別された意識を戻すためのステップとして、「能動的注意」「停止」「受動的自覚」の三つにウィルバーは整理した。
 能動的注意では、意識的に自分の内面を見つめていく。停止では、意識を内に向けながら次第に思考・おしゃべりをストップさせていく。この辺りは、エックハルト・トールのインナーボディを感じるプロセスに近い。その停止の先では意識はすでに働いていないが、そこで意識の深みから自覚(非二元であり、無)が出現するわけである。
 井筒俊彦氏は、晩年にケン・ウィルバーに注目していたようだ。ウィルバーが井筒にどこまで接近しているか分からないが、叡智を統合する最右翼にウィルバーがいるのは間違いないだろう。ただしウィルバーももうすぐ60歳で、新しい才能も世界はつねに必要としている。

□参考ウェブサイト
『意識』

posted by 藤沢烈 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 本の旅 ★★★★★ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする